はるか大昔に天子が山頂にのぼり
おお我が美味し国よと祝詞を上げた山は
小さいころの遊び場だった
山の中腹には幾つか洞穴のようなものもあって
大人からは聞いたことがなかったが
幼心に群墓とも戦時中の防空壕とも考えていた
奈良の盆地では小高い丘があれば古墳であり
石組みの隙間に見える暗がりははるか太古の暗闇に繋がっている
このようなほんの小さな山の幾つかが神の降る山なのだ
そこは子供心にも不思議な町だった
夕方になるといくわかの蝙蝠が空をジグザグに飛び
大きな黒いカラスが太古からの迷い人を現代へと誘う
記憶の霞が茜空を横切り拡がって行って
私は懐かしい明るさに照らされて歩いていた
遠い親戚だけがこの近くに今でも住んでいるが
いつも時代の隙間に生きている私には寄る辺もない
ただなつかしさで出張の途中に電車を降り
記憶に導かれるままに歩いて来たのだ
そうだ
この辺りに小さな池があって岸辺に繋がれた古い舟が怖かった
その朽ちた舟で岸を離れるとそのまま時間の霞に消えていく
小さい頃もひとりでは舟に乗れなかった
自分には五歳違いの兄と三歳違いの兄がいて
近所の子供達も混ざっていつも群れて遊んでいた
小学校の一年生のぼくにはみんな大きなお兄ちゃんで
後をついて遊んでいた気がする
ざりがに釣りに池に遊びに来ていた時も
岸から黒い糸を垂らし一人前の顔をして混じっていた
バケツいっぱいになってざわざわするそれを大きく振り回し
ぼくはみんなになって池の回りを走り回った
でもそれは本当に小さな池に見えた
田舎の用水池のように今はコンクリートに岸を固められ
わずかに雑草の茂る岸に舟が繋いであった
同じように朽ちた木造の舟だが
確かに現代に繋がれて汚れて乾いた泥をつけ
細かい浮き草の中に浮かんでいた
そこから藪のような森の小径を歩いて行くと
道は大きく回り込み折り返し
所どころに窪みのような不思議な穴があって
今はごみや枯れ枝が折り重なって見えた
父親の仕事の関係で小学二年生から金沢に移り住んだ
大学を卒業して就職するまでは金沢に住んでいた
自分の故郷はと問われるとこの町のことを少し頭に浮かべた
中学生までは自分の故郷はこの町だと思っていた
就職してから自分の故郷はと問われると
金沢と答えるようにしている
でもこの年になって東京の生活のほうがはるかに長くなり
子供もできて家族の歴史も重ねてきた
長兄が両親を藤沢に呼んでからは
金沢へ帰る機会もなくなり子供時代の友達とも会うことはない
自分の故郷が分からなくなったような気がした
もともと根の人ではないのだから
しばらくして山頂にむかって歩いて行くと
少しひらけたところがら橿原の町並みが見えた
午後の光のなかで小さな山から望み見た市街は
意外に近くにあって黄色く拡がって見えた
何の変哲もない町だがぼくが生まれた町なのだ
記憶の霞は消え去って当たり前の町並みが広がっている
でもずいぶん遠くに来たような気もした
またひとつ故郷を無くしたような気がした