しおまち
亜樹

 空は悠然と広く高く
 海は漠然と深く遠い
 その狭間でその松の木はひどくひしゃげて小さく見えた
 その松の小さな陰に、溶け込むように老人は腰をかけ
 いつまでもいつまでも
くるはずの無い何かを待っている



***
 


 海というものは青くない、と余之介は思った。
少し前に向かい隣の勘太が自慢げにそんなことを言っていたが、どうやらデマだったらしい。空の色にも露草の色にも似つかない。かといって沼のように底の見えない濁りきった苔色ではなく、川のように澄み切った無色透明でもない。
 ただひどく、深く重たい色だ。
 余之介は勘太に、海なんぞ水溜りのでっかいのだろうと言ったことを少し後悔した。なるほど、例え村が二三沈むほど大きな水溜りができたとしても、これほどの重々しさは生まれまい。水溜りの水は所詮雨水だが、海の水はそうではない。あれは水ではない。水の振りをした、何か得体の知れない生き物だ。少なくとも、余之介にはそう思えた。
 大きく息を吸い込むと、生臭い潮の香が鼻腔を塞ぐ。嗅ぎすぎると気分が悪くなるのはいつも嗅いでいる薬の臭いと同じだと、軽い近親感を覚える。
 余之介は山中の生まれだ。生まれてこの方海など見たことが無い。
 余之介の実家は村の庄屋だった。生村では米のほかに大黄や胡麻の栽培も盛んで、いつも収穫の時期になると、あのなんとも言い難い薬草の黄色い臭いが家に満ちていたように思う。
 けれど余之介がその村に居たのは七つになるまでだった。
 余之介には兄が一人、姉が二人、妹と弟が三人ばかりいた。十も年上の兄は余之介が家に居た時分から跡取りとして盛んに父の仕事を手伝っていたし、余之介自身も特にその家の跡を継ぎたいと思ったことは無い。そのため実家によく大黄の買い付けに来ていた薬師が、跡取りに養子が欲しいと余之介を指名してきたときも、大した抵抗も無かった。
 それから十数年、余之介は養父に薬の調合や効果について学びながら、小間使いめいた仕事の手伝いをして暮らしている。数ヶ月前に養父の姪を嫁に貰い、名実ともに余之介は山奥の小さな薬屋の跡取り息子となった。
 余之介の人生は、一生この薬香臭さを身に纏うことに決まったのだ。
 背負った行李が肩に食い込む。この海辺の村は目的地までの通過点でしかなく、その上今まで歩いた道のりはその目的地までの距離の半分にも満たない。
 額から垂れた汗がからからに乾いた地面へ落ちる。
 わずかなそれは微かに土の色を変えた後、あっさりと蒸発した。

   :::::

 初夏の気配が色濃くなった先日、余之介は養父に呼ばれた。
 養父は丸顔の好々爺で、白いものの交じり始めた頭を丸めるでなく、結うでなく、半端な長さのまま垂らしている。余之介はこの自分より頭一つ分背の小さいこの男が、声を荒げたり、他人の陰口を言ったりするところを一度も見たことが無い。度のきつい丸眼鏡の 奥の目はいつもにこにこと細められている、そんな男だ。
「実はね、余之介君にお願いがあるんだよ」
「お願い、ですか?」
 養父は余之介が養子に来てからも、余之介が庄屋の息子であったときと同じように『君』をつけて余之介を呼ぶ。余之介の方は昔のように『薬のおじちゃん』と呼ぶわけにもいかぬから、『お義父さん』もしくは『柚太郎さん』と呼んでいる。
「いやね、僕ももう歳だから、いつ足腰が弱るかわからないだろう?」
「はあ」
 余之介は生返事を返した。そんな日はまだ随分先のように思える。何しろこの目の前の小柄な自称年寄りは、今朝も早よから裏山の天辺まで山吹の葉を摘みに行って帰ってきたところなのだ。一度余之介もその場所を教えてもらいはしたが、とてもではないが昼までに行って戻れる道には思えない。穏やかでいかにも学者然とした物腰を裏切って、養父の足腰は限りなく強靭だ。
「だから今年からは遠方の仕入れ仕出しも余之介君に頼もうと思って」
 いいかな、と養父は年齢に似合わず大層可愛らしく首を傾げた。
 養父は薬師で薬屋だが、別に山奥に見せ棚を構えているわけではない。
 作った薬を庄屋に売り、収入を得、薬の原料を買う。薬を売りに、もしくは薬草を仕入れに行くときにはついでに行商めいたこともしている。といっても越中富山の薬売りのように各家ごとに置き薬をしているわけではない。預けておいた薬から使った分だけの代金を後から徴収するそのやり方は、養父と自分だけでは到底手が回らない。同じ庄屋や仕入先に一年に一回必ず顔を出すのかといえばそうでもない。
 だから他所が持っているような土産の浮世絵や紙風船なぞはついぞ持ち歩いたことはないし、薬の入った紙袋にしても薬の名と養父の名の判が押してあるだけのそっけないものだった。
 それでも問屋に卸すよりも行商の方が羽振りがいい地域もあるらしいから、どちらが主なのか怪しいものだと余之介は思う。
 余之介は今まで実家を含めた近場の仕入先にしか行ったことがなかったが、そのときにも一応行商の仕事はしている。そこそこ売れた。
 けれどそれはあくまで近場で、遅くても半月で帰ってこれる距離であった。一方今まで養父が言っていた仕入れ先は、一度出かければ半年は戻れないような、余之介とっては異郷とさえ思える遠い村である。
 断る理由が無いではなかった。なんといっても余之介は妻を娶ったばかりなのだ。
半ば養父の跡を継ぐための結婚であったとはいえ、養父の姪は頭の良い、控えめな、けして不美人といった顔つきではない女だ。余之介にこれといった不満は無い。むしろ彼女についてもっと知りたいという欲求さえある。
 なにしろ現段階で余之介が自分の家内について知っていることと言えば、紗枝という名前と、少々出過ぎた前歯を気にして恥ずかしそうに口元を隠して笑う癖と、朝の味噌汁をちょうど良い塩梅に仕上げることのできる料理の腕前だけだ。
 これで本当に夫婦と言えるのか、余之介には甚だ疑問である。
 養父にこの旨を伝えれば、おそらく無理強いはしまい。何しろ養父は妻と仲がいい。元々が親類であるのだから当然だろうとは思うが、時々余之介は紗枝が自分の嫁に来たのか、養父の話し相手に来たのかわからなくなることもある。
――紗枝に寂しい思いをさせたくない。
 その一言でこの話が延期されることは、まず間違いなかった。養父の足腰は先も述べたようにあと十年は心配要らない。
けれど。
「わかりました、お義父さん」
余之介は断らなかった。
 それはきっと、跡を継ぐという気負いからだろうと、余之介は思った。
 胸の奥に燻るざわめきは、それに付属した不安であるように思った。
 養父は酷く満足げに笑い、有難うと礼を述べた。それから一週間程地図を読んだり薬の用意をしたりの仕度をして、余之介は家を発った。
 紗枝は黙って手を振っていた。

  :::::

 家を出てから一月ほど経っていた。背中の荷物は一つも減っていない。
 今までに横切ったさほど裕福でない農村では、薬の需要はほとんど無かった。そんなものを買う金は小作料の支払いに消えてしまう。最近は日照りも台風も来てはいないから、多少はそれでもましな方だ。
 ざくざくと踏み固められた小道を歩き、海がどんどん近づいてくる。そして不意に、余之介は海際の岸壁に、黒い影があるのに気がついた。進むにつれて輪郭がはっきりしてくる。
 松だ。ごつごつとした岩肌にしがみつくように、松が一本生えていた。
 その木はひどく低く、海に向かって手を伸ばすように枝を広げていた。どこか一人取り残された迷い子のような印象を受ける。
 更に近づくと、その木の下に更に小さな影を見つけた。人がいる。それもどうやら老人のようだった。
「じいさん、釣れるか?」
 釣りをしているのだろうと検討をつけた余之介はできるだけ大きな声で呼びかけた。今日はもうこのあたりで泊るつもりでいる。どこぞ宿場があるか訊かねばならない。この気温で凍え死ぬことは無いだろうが、夜露は避けられない。できることならと床の上、そうでなくてもせめて屋根のあるところで眠りたかった。
 海はもう目の前だ。その松との距離も目と鼻の先だ。そして、畑仕事で鍛えられた余之介の声は無駄にでかい。
 聞こえないはずが無い。
 案の定老人は緩慢な動作で振り返った。日焼けした肌が皺の深さを際立たせている。頭蓋の中に落ち込んだ目玉は小さくはあったが、確かに余之介の姿を捉えていた。
 けれどそれだけで老人は何も言わなかった。
 余之介は特に構わなかった。よくあるといえばよくあることである。余所者がいつでも歓迎されるはずも無い。ひょっとしたら老人は釣りなどせず、ただ海を見ていただけなのかも知れない。
「この辺に、宿場は、あるかい?」
 耳が遠いのかもしれないと先程よりも大きな声で尋ねると、同じく老人は無言で道の向こうを指差した。



 果たして老人が指差したのは、村の敷地内なのかそのまた先なのか、余之介は若干の不安を抱いたものの、他に仕様が無く歩き出した。
 有難いことに数十歩も行かない内に二階建ての茶店を見つけ、余之介は安堵の息を吐いた。店番をしていた娘に尋ねると、思ったとおり二階は旅人専門の宿になっているらしい。
 そのまま今夜泊りたい旨を伝え、ついでにすいた小腹を膨らまそうと品書きの端に書いてあった饂飩を頼む。外に置かれた長椅子に腰をかけ、汗を拭いた。足は疲れの峠を越えていて、もはや感覚も鈍っている。
 程なく白い湯気を伴って、茶碗よりやや大きいくらいの丼がやってきた。竹を削っただけの粗末な箸と共に余之介はそれを受け取る。実家のものより多少出汁の色が薄い気がした。
「お客さん、どっから来たね?」
 よっぽど暇なのか、それとも元来の話好きなのか、娘は茶店の中には戻らず勝手に余之介の隣に腰をかけた。近くで見ると、娘というほど若くは無い。せいぜい余之介より二三歳下という程度だろう。垢抜けているわけでもない、目鼻が目立つ顔のつくりのせいで多少幼く見える。
 すすった麺は余之介が普段食べているものより幾分塩辛くはあったが、歩き通しで空になっていた胃を満足させるには十分だった。半ば飲み込むように咀嚼し口を開く。
「北井の方からだな」
 実際はその更に奥だ。けれど女はまぁえらい遠いところからと目を丸めた。
「行商かね?」
「ああ、薬の。どうだい、一つ」
 葛籠をぽんと叩くと、よしてくれよと女は笑った。
「そんなもん買う金があるんならもっと良いおべべを着てるさね。怪我したなら唾つけるし風邪引いたんなら大人しく寝る。それでどうしようもないなら諦めるだけさ」
 医者と薬の世話になったのは子供産んだときだけだよと、胸を張って女は誇らしげに笑った。
 そんな風に言い切られると余之介としては苦笑するしかない。江戸や堺まで行けば話しは変わるが、地方ではやはりまだまだ所詮薬は高級品、もっと言ってしまえば嗜好品という認識が強い。
――有ればなんとなく安心だが無くても別に困らない。
 その程度のものだ。別に余之介も本気で売りつけるつもりも無かった。
 余之介が『客』として認識しているのは食うに困らない程度の小金持ちか、生きることに貪欲な大金持ちか、今まさに苦しんでいる病人だ。
 言っても余之介の、というか養父の薬は小判一枚米なら一俵というような高級品ではけしてない。ピンきりではあるが、一番安い薬一回分ならその日の晩飯のおかずを一品減らせば裕に買える。効き目も概ね好評である。阿漕な商売をしているつもりもない。
 女に買うかと問いかけたのは、余之介なりの会話に入る前挨拶のようなものだ。それで本当に売れることもあったし、売れないこともあった。女も商売柄そういった会話に慣れているらしく、さほど本気にしていない。ありふれた儀式の一つでしかないのだ。
「そういやぁ道脇の松の下に妙な爺さんがいたが、ありゃなんだい。俺は山育ちだからようはしらんが、ここいらじゃ爺婆は山じゃなくて海に棄てんのかい?」
「あら、いやだねぇお客さん。あんな道の側に棄てて何になるのさ。あんよがあるなら帰ってこれるさね。大体あんなとこで死なれたんじゃぁ見栄えが悪いったらありゃしない。客が来なきゃ話になんないんだよこっちはさぁ」
「海に落とせば良いじゃねぇか」
「で、死体食った魚釣って食うのかい?やだよあたしは。おとろしいたらありゃしない。・・・・・・ありゃあね、待ってんのさ」
「何を」
「さあ?」
「さあって、何だよ、気になるじゃねぇか」
 拍子抜けさせられた余之介が軽く顔をしかめると女はおお怖いとおどけた。余之介の反応を楽しんでいる気がある。それが余計に余之介の癪に障った。それが顔に出ていたらしく女は更に楽しそうに笑う。悪趣味だ。
「やだね、お客さん。でかい図体して拗ねないでよ」
「拗ねてねぇよ。どうせあれだろ。呆けた頭で若い時の思い出に浸って、昔の女のひゅうどろでも待ってんだろ」
 言ってからそれが随分しっくりくるように思った。あの時、余之介方を向いた目に感じた微かな違和感が払拭されるような気がする。あれは余之介に何かを期待していた目だ。何かに焦がれていた目だ。それがこの世のものでないのなら、なるほどこれほど相応しいものもあるまい。
 余之介の言葉にそうだねぇと、女も控えめではあるが同意を示した。
「まあ、色々言う奴もいるがね。村の年寄りには鯨見張ってるって言う奴もいるし」
「くじら?」
「昔は捕れてたんだとこの浦でも。今は潮の流れが変わったかなんかでとんとご無沙汰でね。干上がる一方さ」
 そんなものかと、余之介は思った。
同時に自分の浅はかさを知る。農村と漁村は違うのだ。
 農村はまず天候と戦う。次に害虫、害獣に頭を悩まし、病の予防に躍起になる。
 漁村であれば、何はさておき獲物がいなくては話にならぬ。どんなに気が利いた仕掛けも丈夫な網も、掛かる魚がいなければ無用の長物でしかない。日照りでなかろうが、大水が起きまいが、漁村の危機はいつでも簡単に訪れる。
共通するのは自分たちでは如何しようもないという、大昔から決まりきった人の無力さだけだ。
「あたしが二つになった年が鯨の採れた最後の年なんだと。年寄りどもは今でもよく言う
よ。濱の祭には鯨がいるって。なんとなく覚えてるような気もするんだけどね。騒がしい
あの太鼓の音や男衆の勇ましさをさ」
 懐かしげな女の声に余之介もどうにかその様子を想像してみようと試みたが、如何せん無理な話だった。そもそも余之介は鯨漁のやり方を知らない。余之介の知っている鯨は味噌汁に入る塩漬けされた赤い肉塊か、時々実家で害虫除けに使っていた飴色の鯨油、昔義 父の薬棚に入っていた土色の血か灰褐色の骨など、既に加工されたものでしかない。山ほどに大きな魚だということは知ってはいたが、その全体像などは山育ちの余之介には考えの及ぶところではなかった。
「あの爺さんはそん時刃刺をやったんだと。そりゃあ勇ましくて、濱の娘の半分は爺さんに惚れたって」
 余之介は刃刺と言うものが何なのか知らなかった。それを察したのか、女はああ、と笑って言った。
「まあ鯨漁の一番の花形だね。鯨目掛けて銛撃って、あのでっかい化け物染みた魚に手形包丁一丁で挑むんだ。そりゃあ、ただでさえ雄雄しい海男のますらをぶりも上がるってもんさ」
 二つの時の記憶がしっかりと残っているわけでもあるまいに、女は懐かしそうに頬を染めた。
 余之介は薄らと悟る。
 きっと女の中では微かに残った自分の記憶と、後から周りの大人から言って聞かされた記憶が混合して、区別がつかなくなっているのだろう。それは必ずしも虚像ではない。その華やかさ、勇猛さは実際のものと同一ではなくても、女の中の鯨漁の情景はそれをおいて他にはないのだ。現と夢幻の入り混じったその情景は、この上もなく美しいに違いない。
 それは余之介が大黄の匂いを嗅ぐたびに、黄色い空気に満ちた実家の土間を思い出すような、自分の中の原点の風景だ。
 美しいその情景は、いつでも微かに胸を刺す痛みを伴っている。
「鯨が来なくなってからは山見――鯨の見張り番だね、それも無くなって、村の漁師衆はちょいとはなれた漁場まで、二ヶ月ばかしかけて鯵やら烏賊やら釣りに行くようになって、活気ってもんがなくなってく一方だよ」
 それでもお飯食えてるんだから好い方だけどねと、溜息混じりにそれでも女は笑う。砂の様な笑いだ。からからに乾いている。
「姐さん、旦那は?」
「三日前から海の上だね。今度帰んのはいつになるやら」
 食い扶持が減って有り難いさと女は言った。余之介にはそれが本音か建前か余之介には判別がつかず、なんと言って良いものかもわからなかった。女はそんな余之介をまた笑う。
「お客さん、奥さんはいるのかい?」
「……ああ」
「ふぅん、美人かい?」 
「さぁ?どうだろな」
「子供は?」
「……まだだよ」
 そもそも余之介が紗枝を娶ったのはつい先月だ。いるはずが無い。もしかしたら帰った頃に紗枝の腹が膨らんでいる可能性も無いではなかったが、限りなく低いように思う。紗枝が自分の子供を産む、ということにどこか余之介は現実味を感じない。紗枝のせいではない。自分の子供という存在を想定するのが、まず余之介には困難なのだ。
 子供が嫌いなわけではけしてないが、自分の子供となると話が違う。それは今まで余之介が出会ってきたどの子供とも違う。全くの未知数だ。鯨よりもタチが悪い。
 そんな思考を走らせて顔を顰める余之介の様子をどう解釈したのか、女は一言早く帰っておやりよと言うと一旦茶店の中へと帰り、急須と湯飲みを持って戻ってきた。再び腰をかけると女は、あの爺さんはさぁと話題を元に戻した。
「まあ、お客さんがさっき言ったのが一番近いんだろうね、多分。あの爺さん美人の嫁さんと可愛い娘がいたらしいから」
 饂飩の丼は疾うに空だった。女が白湯かお茶か判別つかむような液体を湯呑に注ぐ。一つを余之介に渡し、もう一つに女は躊躇なく口をつけた。もはや仕事をする気はないようだ。
 ここしばらく物を喰うときの他口を開いていない余之介にとって、この良く笑う女との会話は特に苦痛ではなかった。黙って女に習い湯呑に口をつけると微かに塩の味がする。どうやら白湯らしい。
「私は見たこたぁないから、実際どうだったかは知らないけど、仲が好い夫婦だったんだと……爺さんが漁に出てる間は機織って、寂しいとも切ないとも言わない、出来た人だよねぇ、真似出来そうもないやね」
 ぼんやりと女は海の方を見た。その目には海が映っている。余之介が見たそれと違い、ひどく澄んだ青色をしていた。釣られるように余之介も海を見たが、やはりそれは青とはいえぬ、形容しがたい重たい色でしかない。
 女の見ている海が青いのだろうか。
 それとも女の目に映った海が青く変わるのだろうか。
「姐さん、寂しいのかい」
「ああ、そうだねぇ」
 胸に生まれた些細な疑問を振り払おうと、余之介が発した問いに女は微かに笑った。今までの大きく口を開けた、どこか乾いた笑いではなく。
 ――まるで紗枝のような笑い方で。
「寂しいねぇ」
 諦めともつかない声を伴って、細められる目を見ながら余之介は思った。
 きっと紗枝の目に映る海も、青いに違いない。


 余之介の案内された部屋は、まあ上等な部類に思えた。一番安い部屋でいいと余之介は言ったのだが、二部屋しかないらしく、もう一部屋は既に先客があるらしい。一応その先客に挨拶の一つでもしておこうかと思ったのだが、間の悪いことに留守のようだった。部屋の前でぼんやりと帰ってくるのを待つのも馬鹿らしいので早々と自分の部屋に引き上げ、かび臭い布団の上に横になった。破れた障子戸の隙間から海が見える。波の音までは流石に届いては来なかったが、潮の香りはするような気がした。幻想かもしれない。あの女の濱の祭りのように。自分にとっての大黄の臭いのように。
 きっとあの老人とって、海とはそういう類のものだろうから。
 美しい幻に抱かれて、余之介は目を瞑る。
 泥のような眠気がいとも容易く余之介を飲み込んだ。


************


――ざぁ、ざあぁぁ。
――ざ、ざざぁああぁああぁ。

 鼓膜に、波の響きが映る。
 美しくはない、厳しい音だ。
 一波波が寄せる度、松のしがみつく岩壁が抉られるような気がした。
 眼下に見える海は黒い。ただただ黒い。
 昼間とは比較にならない気味悪さを伴って、ただ寄せて、ただ返す。
 得体の知れない、大きな生き物。

――ざぁ、ざざぁあぁ。

 見上げると月が照らす微かな薄闇に、ひしゃげた松が濃く影を落としている。
 どうして自分はこんなところにいるのだろう。手を見ると、深く皺が刻まれ、日に焼けて、まるで枯れ木のように細い。そのくせ爪は分厚く白濁色に濁って、歳を経た樹木の皮のようにかさついていた。
――ああ、そうか。
 自分はあの老人だ。あの松の下で、何かを待っている、あの老人だ。
 ならば、と目を凝らして海を見る。
 自分があの老人ならば、待たねばなるまい。鯨か、女か、それ以外の何かを。
 それはきっと海から来る。あの、得体の知れない生き物が産み落とすのだ。
 
――ざぁん、ざぁ、ぁぁ

 程なくして暗い海の端にぼんやりの小山のような塊が蠢く。
 なるほど、アレが鯨だろう。海と同じ色をして、そのくせ海に溶け切れず、さまよう大きな不純物。化け物のような魚。濱に祭をもたらす使者。
 ゆっくりとゆっくりと其れは近づき、終いには自分のいる岸壁の真下にまでやってくる。
 いつの間にか自分の手には刃物が握られていた。お世辞にも大きいとはいえない、けれどしっかりと手になじむ刃刺包丁。
 考える間もなく、体が勝手に動く。

――どさ。
――ざく。ぶしゅ。がり。がりり。

 崖の上から跳び降りて、その背中に包丁をつきたてる。鈍い音を立ててその皮膚が裂け、血が噴出す。それも構わず深く深く包丁を突き立てて、横に引く。時折骨に当り、硬質な、無機質な音がした。

――ざく。ざく。ざ、く。

 切り刻んでいるうちにその破片は海に解ける。海に、還る。このままでは自分は沈んでしまうのでないかと、ふと恐ろしくなって、その手を止めると、もう鯨は跡形もない。手に握った包丁すらない。あんなに飛び照った血すら海水に変わったものか。もはや鯨の証拠は何処にもない。
 ぼんやりと自分は海に浮かんでいる。
 けれど何の感慨もない。ならば鯨ではないのだ。自分が待っているものは。こんな、義務化した作業で消え去ってしまうような、そんな儚いものではないはずだ。
 海から濱を見る。妙に明るい。そうか、祭りだ。自分が鯨をとったから、濱の祭が始まったのだ。その獲物はもう海へ帰ってしまったのに、そうとも知らず祝っている。

――どぉん。

 太鼓が鳴った。

――どぉん。どどん。どん。

 低い、そのくせよく響くその音は、濱を越え、自分を越え、海に遥かに飛んでゆく。
目を凝らすと、濱には女児がいる。太鼓の音にはしゃぎ、大人に混じって踊っている。
 濱の人間は皆笑っている。皆幸福そうである。当たり前だ。祭なのだから。鯨が、取れたのだから。

――どぉん。

 けれど、どうしたことだろう。この太鼓の音は少しも自分に響かない。自分は、少しも、幸福では、ない。如何してだろう。皆は、あんなに楽しそうなのに。
 鯨が獲れなかったと知っているからだろうか。
 あんなに喜んでいる村衆に対し、罪悪感を抱いているのだろうか。逃がしたのは自分だ。あの鯨を、再び海の一部に戻したのは、紛れもなく自分だ。申し訳ないと、そう思っているのだろうか。
 ――違う。
 そんな、しみったれたものではない。
 自分は知っているのだ。あの太鼓が。あの音が。濱が潤う祝いの音などではないことを。
 アレは弔いの音だ。
 鯨ではない。海の一部が又、欠けていった弔いの音だ。
 そのことに思い当たるや否や、あの村衆が哀れでならないように思えた。
 彼らもまた、幸福ではないのだ。
 彼らは葬式の客だ。そのくせ場にそぐわない陽気さを振りまいている。ただ、哀れだ。滑稽だ。
 切ないも虚しいも通り越し、なにやら馬鹿らしくなった。無理に大口を開け笑う。いっそ自分もあの鯨のように、海に解けてはしまえまいかと、目を瞑ってみた。

 ――どぉん。
――ざ、ざざん。

 波の音と太鼓の音が自分の鼓膜を交互に叩く。
 溶けてはくれぬ体は波に叩かれ、曖昧に凡庸に、ただ浮かんでいる。
 沈みもしない。
 流されもしない。
 何処へもいけない。

 ――どぉん。

 不意に波でない何かが頬に触れた。
 微かに温もりに惹かれるように目を開く。
 目の前には妻がいた。
 皸の出来た荒れた手で、自分の頬を撫でている。 
 彼女の手はこんなに荒れていただろうか。
 思い出そうとしたが、同時にそんな昔のことは当てになるまいとも思う。
 妻の隣には女児がいる。
 自分にも妻にも養父にも似ているようで、似ていないようでもある、そんな女児が、妻の着物の裾を握り、睨むように此方を見ていた。
 妻は青い海を映した目で、自分を見ている。
 妻の目の中で、年老いた自分は青い海に浮かんでいる。
 
 ――ざ、ん。

「――」
 自分は妻の名を呼んだ。その声は波に浚われたが、妻には届いたようだ。
 妻は笑った。恥ずかしそうに、寂しそうに切なそうに、口元を隠して笑った。
 そんなことせずとも良いと、常々自分は思っていた。
 前歯が出ていようと、口が人と比べて少しばかり大きかろうと、自分の妻を美しいと自分は思っていた。
 大口を開け、屈託なく笑う様が見てみたいと、そう思っていた。
 口に出して云った事は、無い。
 云えばよかったのかも知れない。
 云えばよかったのだ。
 
――どぉ、ん。

 今でも遅くは無いのだろうか。
 ふとそんな思いがよぎる。
 自分はもうひどく年老い、涸れ果て、目すらも霞む。けれども目の前の妻は、手には皸をこさえ、微かに御髪も乱れてはいたが、まだ十分に美しい。別れたときと同じように。

「――」

 もう一度名を呼んだ。頬に触れるその手を取ろうとして、漸く気づく。

 ――ざん。 

 鯨ではなかった。
 祭ではなかった。
 自分が待っていたものは。
 この、頬を撫ぜる、皸で荒れた、細やかな手。
 脇から自分を睨むように見つめる幼児。
 いや、あれは、泣きたいのをこらえているのだ。
 ほら、あんなに大きく目を見開いて、潤ませて。

 ――ざ。ざざ、ざ。ざざん。

 ああ、わたしが待って、いたものは。



 目を覚ましてみれば、もう疾うに日は暮れていた。どれほどまどろんでいたのか検討もつかなかった。ただ確かなのは、夜中だということだけだ。今日は月さえ出ていない。厚い雲に覆われ、微かな影を漏らしていた。
 ぼんやりと余之介は己の手を見る。
 次第に暗闇になれた目は、徐々にその輪郭、刻まれた皺を知覚する。
 起き上がって外を見る。
 海は見えない。
 波音も聞こえない。
 ただ、暗い。
 山の夜とも違う。闇だ。海から来る何かしらが、空気にまで混じったような――。
 そこまで考えて余之介は首を振った。まだ少し寝ぼけているらしい。
 もう一度横になろうとも思ったが、一旦高ぶった神経はなかなか収まってはくれなかった。仕方なしに水の一杯でも呑もうかと、階下へ下る。茶店の女はまだ起きているらしい。店の奥で微かな物音がした。一瞬、女に水の場所を聞こうと思ったが、旦那の留守に女の寝床に上がりこむのが気に引け、直力音を立てぬように外へと向かった。
 慣れぬ間取りに数回つまずきはしたものの、何とか野外へと出、殆ど勘に頼って井戸なり川なりを探す。
 けれど、余之介が思い浮かべたような水場は、ついぞ見当たらなかった。
 ぐるりと茶店の回りを回ろうとしたところで、いっそ潔く女に聞きに行くかと踵を返す。
 物音を頼りに一階の奥を覗けば、不意に声が聞こえた。
 足を止めて耳をそばだてる。
 障子一枚を隔てた先から、その声はした。――女の声だ。その合間に、男の声も聞こえる。
 そして、其れはどちらも――ひどくなめかしい艶を帯びていた。
 かすかに頬に朱が差すのを余之介は感じた。この奥で何が行われているかは、明確であった。
――旦那が戻ってきたのか。
 余之介は部屋を降りてすぐに女の元に向かわなかった自分が、ひどく聡明な男のように思えた。
 同時に、なにやら安心したような、落ち着いたような心持になる。
 水の在り処はようとして知れなかったが、邪魔するのも気が引けた。出歯亀の趣味もない。もとよりどうしようもなく喉が渇いていたわけでもなかった。
 いっそ、すがすがしい思いさえ抱きながら寝床に戻ろうとした余之介の足が、不意に益体もない懸念に纏わりつかれた。
 余之介自身、馬鹿なことだと思いつつも、一度生まれてしまった疑心暗鬼は消えてはくれない。
――女の旦那は、いつ帰るかも知れないのではなかったのないか。
――結局顔も見てはいないが、もう一人の客がいたのではないか。
――あれは、あすこにいるのは。
――女と抱き合っているのは。
 込上げてくる吐き気を無理矢理押さえ込み、余之介は暗い夜道を駆け出した。
 けれども、懸念は振りほどけない。

――本当に女の旦那なのだろうか。


散文(批評随筆小説等) しおまち Copyright 亜樹 2011-06-20 20:21:22
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