靴のこと
はるな


 梅雨の只中だ。来る日も雨。こちらは雨も強い。どこにいても空気が重ったるく水分を含んでいる。

 昨日、婚姻届を提出してきた。受理日は今日になると言われた。警備室での提出。警備員のおじさんが二人で、そろっておめでとうと言ってくれた。足に合わない、でも一番に気に入っている靴を履いて。(金色で、太くて高いかかとのついた美しい靴。)国道沿いのすき焼き屋で夕食をとった。

 わかったことがある。
 わたしはもうずいぶん前から彼のことは愛していたのだ。一緒に住むのよりも、遠いところへくるよりも、婚姻届に記入するよりも、昨日よりも、ずいぶん前から。だからそのどれにも覚悟は必要なかった。それはもう済ませてしまったから。
 何も捨てる必要はないし、なにも纏う必要がない。彼のほうの心情まではわからない。ただ、何度も「いいのか?」と聞く彼に、何度も「もちろん」と答えるわたしに、すこし緩む頬。一緒にいてもいいのだ、という気持ちになる。

 彼にも、覚悟はあるだろう。もちろん。いろいろな種類の覚悟があるけれど。
 わたしは、彼にわたしのことで傷ついてほしくない。どんなことでも。わたしが何をしても。無論、いまのところわたしには彼のことを傷つける予定も理由もないのだが。
 それでも、どんなことがあっても、わたしのことで傷つかないよ、と言ってくれたらいいのに。と、思っていた。言えなくて、冗談のように、君がこれから傷つかないよう、守ってあげるからね。と言った。背中に巻きついて、彼の体温ごしに。
「頼もしいなあ」
 と、笑みを含んだ彼の声。
 そのうち、あるいはたびたび、彼のことを傷つける気がしてしまう。彼はとてもやさしいし、まじめで、筋の通った人間だから。

 帰りの車のなか、「あなたは今までとてもいい恋人だったよ。」と言った。本心で。雨を拭ってびしょびしょと動くワイパー。赤くなった足指、あわない靴。「お前は、お世辞にもいい彼女とは言えなかったなあ。」通り過ぎる街灯との距離に、彼の横顔が明滅する。
 それなら、もう慣れたよね?
 とは聞けずに、やっぱり、靴を弄んでいた。いい妻になると宣言できるわけがない。それでも、生活をともにするのだ。たぶん、べつべつの覚悟を胸のうちに。

 結婚をした。


散文(批評随筆小説等) 靴のこと Copyright はるな 2011-06-16 22:40:36
notebook Home 戻る
この文書は以下の文書グループに登録されています。
日々のこと