眠り姫
salco

 
モンキーズ・ダイジェスト
 
         故・鳥丸孫一郎氏回想録「わが温故知新」より抜粋

 ここはメタセコイアの群生する山の深奥。遥か下方のせせらぎを木立
の虚ろと鳥の囀りの間に聞きながら、朽ちかけた倒木に腰掛けていると
余りのどかで疑わしくもなる。私を疎んじる錢財教授の下で働く日々の
(略)白亜紀K‐T境界を狙って掘った。
 さて私は小型鶴嘴つるはし、スコップや刷毛にルーペ、その他諸々道具を携え
当たりをつける。この先十年の、あわよくば年内終戦の考古学者的孤高
の闘いに思いを馳せつつ、振り下ろす。因みに私は助教授※である。

 ところが四日目、二メートルと掘らぬうち鶴嘴の尖は妙な手応えにぶ
ち当たった。さっそく私はスコップに持ち換え、刷毛を掲げて身構え
た。
 まず見えたのはひび割れたガラス質の石だ。と思いきや、屈強な土を
払うにつれて三?が十?、(略)五十?と拡がって行き、(略)一m、
(略)二m、現れ出でたのは驚くなかれ、ガラスの棺だ。もっと驚いた
事に、―― 私はずり落ちた眼鏡の曇りを軍手の指で拭いながら、己が
目玉か頭を疑ったものだ ―― それは襤褸くずと見紛うミイラならぬ
見目麗しい、妙齢の女の寝姿だった。

 この肌の白さ、この頬の赤み、唇は朝摘みの薔薇の色。髪は艶やかに
ふさふさと、夢の如く清らな美貌の、閉じた瞼はいかにも軽やか。その
隆起した胸元は動かぬままに安らかな寝息が聞こえそう。纏った長衣も
純白の、美女はまるで ―― いや、あり得ない。これが現実ならば私
の頭が幻なのか、これが幻ならば紛れもなく私の頭に現実はない。
 しかし私は遥か下界に残して来た家内の、仰臥せるイノシシの如き寝
姿を即座に対照し、幻滅という現実の苦味をまざまざと、亦ざらざらと
舌に覚え得たのだった。それで思わず棺を持ち上げ、その余りの重さに
これも極めて現実的な痙攣的負荷を腰椎に覚え、院生時代のギックリ腰
をも鮮烈に回想したのである。
 それなら蓋を開けようとしたところが先刻の鶴嘴の当たり傷で左中指
第二関節を切り、傷口から盛り上がり表面張力と凝固因子の縛めをやす
やす超えた鮮血の味と、その後を追って溢れ出た痛みとが、私のふやけ
た頭に重ね重ねもこれが夢でない事を知らせた。くそ。
 私は一帯の土壌に於ける破傷風菌の有無について案じながら水筒の水
で傷を洗い、ポール・スミスのハンカチできつく縛った。くそ。

 棺の蓋は本体にガッチリ合わせて作られており、これと言う充填剤も
窺えぬがびくともしない。どこかに折れ釘でも落ちてやしないか、又リ
ュックに何か鋭利な梃子代わりはなかったかと、掘った穴から這い出す
労を取らねばならなかった。
 が、こんな山奥に建築資材の落ちていよう筈はなく、ひっ掻き回した
携行品にもおよそ一突きの刃こぼれを保証する繊細なヘラやノミしか在
りはしない。無駄と知りつつ十徳ナイフの各徳をあてがってみたが、や
はり不得だった。
 はて困った。こうまで眠れる美女に触れてみたくとも、鶴嘴でガラス
を一突きなど考古学にはもっての外だ。クレーン車でも要請しに山道を
下るのも、己が発掘物を放置する間に味わう考古学的煩悶を思えば二の
足を踏まざるを得ない。重機を入れて道を拓くのだけで数カ月は要す
る。第一、その為には学内へ申請しなくてはならない。すると銭財の奴
に(略)私は山菜採りの老婆さえ呼びたくなかった。この女は私だけの
発見だ。

 こんな遺骸は存在しない。臨終直後、いや二時間前でもこんな生気は
あり得ない。この柔肌は血が通っている、輝く頬は上気さえしている。
そして目は……一体開いたらどんなであろう。短い眠りから覚め、長過
ぎた夢の余韻に惑いつつ私を見上げる明眸は、この瞼の膨らみと長い睫
毛が保証済だ。通った鼻筋と形の良い鼻腔、幼さの残る唇、愛らしいおとがい
に続く皺ひとつない頸。陶器のような胸の丘陵は、押し返して来るまん
丸な弾力を有し、小さなピンクの乳首にそっと歯を立てきつく吸うと甘
い呻き声が(略)、もう我慢できなかった。鶴嘴を掴むと彼女の足許へ
回り込み、能う限り慎重に蓋を穿ち始める。
 逡巡の時は終わった。これは仮死だ、救出なのだ。昆虫を見よ、皮膚
呼吸という事がある。この細い腰はどうだ、弦楽器の曲線とくすぐった
がりの臍。白い、たっぷりと女を秘めた腹。密生の縮れ毛に隠されて熱
く引き締まった逸楽の口、腰椎のえくぼで誘う淫らな尻、私の掌に慄き
ながら恣に開いて愛をせがむ太腿と(略)君の名前は何て言うの? あ
あ、思い出せなくてもいいのだよ。この唇が名前を付けてあげよう、こ
の舌が刻印を入れてあげよう。そしてこの(略)びしっ、と音がして縦
を貫く亀裂が入った。よし。
 蓋がこのまま真二つに割れて中に落ち込む事のないよう布テープで亀
裂を支持し、幾本も渡して棺の横腹にも圧着する。今度はノミに持ち替
え、任意点にあてがいハンマーで叩く。ここからが発掘技術の見せ所
だ、スナックのママさんが手にする氷に目があるように、鉱物の目に沿
って亀裂の走行を誘導して行くのだ。コツコツ、コツコツ、ゴツゴツ、
ゴチゴチ(音の変化は方法論へのレスポンスである)、ゴチゴチ、(略
)ビキッ! 
 見事に、彼女の爪先の上で縦の亀裂と斜め上がりの亀裂が連結した。
ようやく私は額の汗を拭い、ずり落ちた眼鏡をシャツの裾で拭き、
 ふう! 
 水筒の残りを飲み干した。
 而して、掌大の三角形を成す亀裂の中心を軽く叩くと! 破片は彼女
の足先を掠めて落ちた。お見事過ぎて単独行が悔やまれたほどだ。
 カッターで布テープを切る。肘から先を穴に入れ蓋の一方を持ち上げ
る。重い。ガガ。僅かな隙間が出来る。ガガ。隙間が広がる。側面に回
り、その隙間を渾身の力を籠めて引く。ゴゴ、ゴゴゴ。反対側も同じよ
うに自分の方へ引く。ゴゴゴ、ゴゴ(略)。そして片方ずつ地面へ押し
落とす。ドワン! よし! ゴゴーン! よっしゃあ!

 空気に晒された彼女は一層新鮮だ。顔に触れてみる。それほど冷たく
ない。冬の戸外から帰ったという程度だ。そして柔らかい! 
 屈み込んで顔を近づけてみた。棺の中は薔薇の香りが淀んでいる。そ
っと項に片手を差し入れ、もう一方で肩を抱き、ゆっくりゆっくり起こ
す。頭がのけぞると、唇の間に前歯が覗いた。硬直さえしていない! 
絹糸のような毛髪が私の耳元で芳しく囁いた。微かに眉根を寄せて「う
ーん」と寝起きの呻きを、この見事な喉が今にも洩らすのではないか。
 果たして! 直角に抱き起こす刹那、その口から僅かな息を彼女は洩
らしたのだ。
「君! やっぱり。今度はゆっくり息を吸うのだ。心配しないで、さあ
吸ってごらん」
 励ましながら背中を擦り、腕を擦る。だが息を吸わない。
「どうした、頑張れ」
 何とした事か、その拍子にがっくり俯いてしまった。起こし過ぎたの
だ。
 慌てて額を起こし気道を確保した。ギックリ腰の懸念も忘れて棺の中
から抱え上げ(ああ、何と甘美な重量であった事か)、足元の道具を蹴
散らして地面にそっと横たえた。それで人工呼吸に屈み込んだ時だ、死
相を見たのは。
 肌がこわばり色を失って骨相にへばり付き、黄ばんだこめかみに紫斑
が浮き出る、窪んだ眼窩に眼球が没して行く。飛びのいた私の目の前
で、肌は土気色から緑色へ、服地に滲み出る腐汁の茶色い広がりにつれ
て溶けた肉体は萎み、濡れた毛髪は脱落して後退し、どす黒い顔、胸
元、腕、足に細かい畝状の皺が蠢きながら伝播して行く。
「ゲッ!」
 突然がくりと開いた口から濃緑色のガスを吐き出した。たちまち私の
顔面は強烈な腐臭に呑み込まれ、
「グエッ!」
 と次は私である。喉を焼く胃液漬けのクラッカーを吐き出した。目も
開けていられない。たまらず全てを放り出し、必死で土を搔き登った。
四つん這いで何とか木の根方を探り出し、深呼吸を繰り返す。ガスにや
られた胃がよじれて痛んだ。何度か胆汁を吐いた。水を飲み干したのが
返す返すも悔やまれる。

 どれくらい経ったのだろう。ようやくひと心地がつき、穴の縁に近づ
いてみた。息を止め、眼鏡を下に落として来なくて全く幸運だったと考
える。二度と下りる気はない。背後の空気を今一度深く吸い込んでから
息を止め、こわごわ覗いてみると、微かな緑色の靄が漂うその底に、空
ろなガラスの棺とテープだらけの蓋の片割れ、そして散乱した私の持ち
物の真ん中に、ぽっかり眼窩を開け歯を剥き出した漆黒の、襤褸くずと
紛うかたなきミイラが一体横たわっていた。



※助教授 … 実態に沿う准教授なる地位が導入される以前の、「お手伝い
さん」にも似た響きが軽視を誘う事もあった、氏生前のやや屈辱的とも取れ
る呼称。



散文(批評随筆小説等) 眠り姫 Copyright salco 2011-06-01 00:09:24
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