鯉のぼり
蒸発王

鯉のぼりが

羨ましかった


『鯉のぼり』


我が家には
江戸時代から受け継ぐ
鯉のぼりがあった

もう骨董ものの古さなので
額に入れて飾るだけで
実際に吊るしたりはしない


和紙で作られた其れは
黒い真鯉の一匹だけで

染められた
黒鱗の一つ一つが
硬質な滲みをもって紙の上に染み出し
艶やかな隈どりの向こうに
どん と
描かれた瞳が
胸の中心を射るような

何か決意を感じる
そんな姿をしていた



そんな鯉のぼりを
祖父は大層気に入っていて

端午の節句に酔っぱらうと
決まって
幼い私にこんな話をした

 お前は女の子だから解らんが
 じいちゃんが小さい頃
 空にたなびく鯉のぼりは
 皆よく喋ったものだ

 屋根より高く舞い上がり
 遠くの景色や空を見ては
 さて 山向こうの湖に白鷺が降りた
 さて 天神様の藤棚が今日は満開だ
 さて 西のお空から雨雲が走って来とる 早くしまっておくれな

 とな

 みな好きなことを喋るで
 皐月の空は
 とても賑やかだった

 まぁ そんな声は
 だんだん大きくなるにつれ
 聞き取り難くなり
 大人になった頃は
 何にも聞こえなくなってしまう

 でもな
 ここ10年
 じいちゃんはまた
 鯉のぼりの声が聞こえるようになってな

 もう一遍
 空を泳ぎたい と

 家の薄茶けた鯉が言うとるのさ
 お前は何ぞ聞こえんかね?

そんな祖父の話を聞いて
すっかり羨ましくなった私は
女の子なのに
鯉のぼりを欲しがり
両親を困らせたことがあった



祖父は
昨年

5月の初めに
穏やかに逝った

痛むのは承知で
葬儀の日
屋根瓦に上って
あの薄茶けた
真鯉の和紙の鯉のぼりを吊るした

( おう おう )

と風が吹き抜け
初夏の高くなった空を
悠然を和紙の鯉が泳いだ

今日の悲哀を物ともせず
やはり
何かの決意を感じさせた

しかし

( おう おう )

( おう おう )


黒い体を膨らませて
風をうける音が

まるで泣き叫ぶように
私の耳にを震わせ


やはり ひどく
鯉のぼりが
祖父が

羨ましくなってしまった




『鯉のぼり』





自由詩 鯉のぼり Copyright 蒸発王 2011-05-05 19:59:35
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