男の子のこと
はるな
いろいろな男の子をみてきた。みなすばらしかった。もちろんなかには反りが合わない子もいたけれど。たぶんわたしはもともと生まれつき、男の子がとても好きなのだ。
男の子を、欲しいなと思うとき、心はざわめいている。勇ましい気持ちのときもあるし、なぜだかわからないけれど悲観的になりすぎたりする。臓器はなにひとつ言うことを聞いてくれないし、お酒やご飯もいつもと違う味になったりする。
ただしい恋の場合−といったらいいのかどうか、わからないけれど−は、でもたいてい、かなしい気持ちにはならない。まるでそれを願って戦場へ行く兵士のような気持ちで、日々が活力に満ちる。彼の言葉のひとつひとつを思い出し、思い出しきるまえに幸福な気持ちになって、それで胸がいっぱいになってしまう。わくわくしすぎておなかがすいて、たくさんご飯を食べるのだけれどそれ以上に動き回るから、わたしの体は喜んで頗る調子は良くなる。
そうでない場合―間違った恋とは言わないとおもうのだけれど―、わたしは物事にひどく否定的になる。わたしのもともと悲観的な根の部分が肥大する。あれもそれも、彼の言葉も、信じるには危うく、裏返したり、反転させたりして、意味や理由を探ろうとしてしまう。それでもなんだか欲しくて、欲しくて欲しくて欲しくて欲しくて欲しくて欲しくて欲しくて欲しくて、手に入れるのだけど、すぐにいらなくなってしまう。
そういう恋って、あとで思い返したときにかなしい気持ちばかりを思い出してしまうし、反省はたくさん見つけられてもわたしの血や肉にはなっていないのだ。欲しくって、手に入らなくって、わがまま言っているだけの恋。
ただ―、男の子を抱こうと決めるとき、いつも不思議にこころは穏やかだった。なにもかもが遠くにあるような、なにひとつとして自分とは関係ないような、そんなきわどい穏やかさだ。それは正確にいえば、抱こうと決めてさえいないのかもしれない。かといって抱かれにいくわけでもなく、男の子からわたしを抱くのでもなく。
欲しいなとざわめいた心はひどく遠くへ行き、からだだけが残る。行為の烈しさとは関係なく、男の子を抱こうと決めるときには、いつだってこころは穏やかだった。
それは終わりにも似ている。そんなふうに自分から抱いた男の子たちは、みないなくなった。わたしはたぶん、物事を手に入れるべき人間ではないのだ。大事にするということがよくわからない。
おんなのこにはいろいろな種類があるけれど、男のひとに守ってもらうような女の子って、可憐だからとかひ弱だからとかではないのだ。ただそういう女の子って、自分を守ることしかできないのだ。きっと。
そんなふうに手に入れた男の子ともう会わないと決めるときも、同じようにこころは穏やかだった。晴れた日や、明るい日の午後に、その考えを得ることが多いように思う。たくさんの物事が許されそうな日。わたしはわたしにだけ優しくすることができたし、誰が傷つこうと構わないと思った。恋愛なんて、傷つくほうが悪いのだ。傷ついたってなんだって、好きなものをきらいにはなれないし、嫌いなものを愛することはできないんだから。
むろん、別れを切り出されるときにはわたしだって穏やかではない。でもいちばんさみしいのは、別れさえもそこに無いときだ。そんなふうな恋愛もいくつもある。こちら側でだけはじまって、どこを探しても終わりなどなかった恋。行き場のない気持ちは、ノートやアルバムや次の恋ににじんであふれかえる。
恋などしないと断言するのはどんな気持ちだろう。わたしはそれが、羨ましくもないし憐れでもない。ただこの先おそらくそんな気持ちにはならないということはわかる。
だってこんなにたくさん人がいるのだ。
ただわたしはもう知っている。わたしは恋や愛や、そういうわけのわからないものや、抱擁や性交や逢瀬よりも、あの穏やかな気持ちを待ち望んでいる。
物事を決めるとき特有のあの穏やかさ。世界と自分が乖離していく恍惚。男の子を抱こう、と決めながら、それでいて、何もいらないと思う、あの甘やかな残酷。
それらは生活とぜんぜん別の場所にあって、いつだってわたしをただの女なのだということをわからせてくれる。
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