孤独
一 二

他者と一緒に生きることこそ
生の充実であると考える西洋において
生きている間
人に話したいこと
人に聞いてもらいたいこと
人から話してもらいたいこと
人の解りたいこと
そういうものが沢山ある人たちの集団と
その集団のシステムが作り上げたものが
西洋の社会というものだと思う

それだけまた
この社会の中で一人の人や
心に思ったことを
喋りあい分かち合う相手のいない人間
であるということが
どんなに寂しく辛い状態を意味しているか

例えばチャップリンの映画の主人公
職も家も無く
自分の周りには空席しかない
人間の示している姿
あれは悲しみを通りこし
静かに怒っている状態の
人間の姿なのだと思う

西洋と日本での孤独の捉え方の違い
が少しずつ呑み込めてくるに連れ
日本の社会ではこの種の孤独が
西洋とはかなり違う色彩で受け止められ
日本人が孤独と生きていることが判った

私たちには
他人を避け
一人の穴の中に閉じこもりたい
という欲求が
心の底の深いところに潜んでいる
のではないだろうか

私たち日本人は
人と一緒に生きている時より
一人でいる方が自由だ
と感じるばかりか
その方がより充実した時間
人間の本性により重要な時間が過ごせる
と考える習慣がありはしないか

こう考えるようになるにつれ
私は詩そのものの中にも
この点で色々な区別があるのに
気が付いた気がした

例えばカトリックの詩は
神と人と一緒に生きる幸せと喜び
から生まれたものであり

逆にその他の西洋の詩には
何とかして他人と分かち合おうと
必死の努力をしている詩が少なくない

そうして日本の詩の場合は
まさにこの孤独から生まれ
少し人の輪に入ってみたが
たちまちまた孤独の中に
閉じこもってしまった詩が多い

詩から遠ざかるが
日本が世界に誇る文化は
浮世絵にしても
漫画にしても
アニメにしても
ゲームにしても
基本は一人遊びとしての趣味
孤独の中から生まれたものであるし

逆に世界の文化を見ると
多人数で親しむ文化が多いように感じる

私の大好きな「萌える」行為も
無常の空しさを
無意識的に感じている人々が
そこからの一時の逃避の安らぎを求めて
生まれてきているのではないかと思う

最後に述べたいことは
逃避の安らぎは
素晴らしいことであって
決して悪いことではないのだ

詩人は孤独と戦うのではなく
孤独と分かち合い
それで得たものを
他の詩人に伝えることが役目なのだ


自由詩 孤独 Copyright 一 二 2011-04-07 18:33:45
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