【批評祭参加作品】朗読についていくつか
rabbitfighter

声と言葉のパフォーマンス、PPWを主催している。(PPWについては僕のフォーラムのHPを参照してください)
また、同じ場所で服部剛さんが主宰しているぽえとりー劇場や、別の場所で催される詩の朗読会で、月平均40人くらいの詩人の、100篇近い詩の朗読を聴いている。

たぶん今日本で一番詩の朗読を聴いているのは自分なんじゃないかと思っているくらいの数の朗読を聴いている。

以上が前置き。

あくまで自分の想像においてだが、詩における朗読の歴史は、詩それ自体の歴史と等しい。朗読、あるいは語りかけるという行為が、初めに在った。文字の発明を待つ間、詩の表現方法は語る、あるいは唄う、のいずれかであった。
文字の発生以降も長い間朗読は第一の表現方法であり続けた。以降、印刷、流通、デジタルへの変換、インターネットの普及などを経て、詩は語られることが無くなった。
語りかけるという、当たり前の技術は、もはや古代の遺産として、ピラミッドの建築方法と同じように、忘れ去られ、失われてしまった。

それでは僕が毎月聴いている100篇もの詩は、何なんだろう。それらは語られているのではなく、ただ読まれているものだ。その朗読に語りかけてくる力はなく、言葉は口元からこぼれおち、鼓膜を刺激しはしても、心を響かせてはくれない。また、複雑に記号化された現代詩は、もはや声の助けを必要としなくなった。

語りかける力を失った朗読は、ずっと昔に行く道を分かれた兄弟たちの力を借りようとする。演劇や音楽の力を借りて、一応の成功を収めたかのように見えるそれらはしかし、安易であるがゆえに、見え透いてしまう。鉄筋コンクリート造の城のような佇まいだ。
ただし、そこから生まれてくるかもしれない新しいものの可能性を否定しない。演劇や詩小説を栄養にして育った映画のような新しい芸術が生まれる可能性を、むしろ想像したい。

それでは朗読は、古代の遺跡として砂漠の中に立ちすくんでいるべきなのか。
僕はそうは思わない。今でもまだ、99篇の力無い朗読の中に、一遍の力を持った言葉を耳にすることがあるからだ。そのような朗読に響いた心を、僕は知っているからだ。なにもミリオンセラーのヒットソングと肩を並べたいわけじゃない。ただ一遍の言葉の塊に、心が震える。その場にいる人にしか共有できないようなささやかな、だけど尊い感覚。そんな言葉の響きに、何度でも、何度でも心を響かせたい。そんなことを願っている。


散文(批評随筆小説等) 【批評祭参加作品】朗読についていくつか Copyright rabbitfighter 2011-03-08 23:46:40
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第5回批評祭参加作品