【批評祭参加作品】まど・みちおの戦争協力詩
石川敬大

 終戦(敗戦)記念日であった8月15日の西日本新聞朝刊1面の「春秋」欄に、まど・みちおの戦争協力詩の話題が書いてあった。テレビのドキュメンタリー番組を観ての感想みたいだから、観られた方もいるかもしれない。

 33歳で出征したまどは、南方戦線を転戦してシンガポールで終戦を知ったとき、陸軍伍長だった。その出征前に戦争協力詩を書いたらしいのだが「書いたという意識も記憶もな」く、全詩集を出す際にその事実を知らされたという。部分引用だろうが、次のような詩だった。


  今こそ君らも
  君らの敵にむかえ
  石にかじりついても
  その敵をうちたおせ

          「はるかなこだま」から


 これが詩? 単なる行分けのスローガンじゃない、という感想を持つだろうが、戦争協力詩などはいずれもこのような、兵隊や軍国民の士気を鼓舞する類の勇壮で空疎な言葉の列記と相場が決まっている。まどにしても、いくつもの「昂り」がこの詩を書かせたのだろうと回顧している。戦時中における文学者の動向については、強制されたのだから仕方がなかったとか、自国の勝利を願うのは当然じゃないかという意見があってしかるべきだし、戦場にかりだされた友人・知人、家族・親族の無事を祈る心情も十分すぎるほど理解できる。だからといって、だれもが与謝野晶子ではなかったし、猜疑心による隣組の目が個々の悲哀を許さなかった。戦後は一転して、高名だった三好達治や高村光太郎などの戦争協力詩が、吉本隆明らの批判の的になった。太宰治の厭戦的心情小説や金子光晴がおっとせいを擬人化して反戦詩を書いていた事実がある一方、太宰も金子も戦争に協力的な作品も書いていたとする説もある。詳しいことは多面的に調べなければ真相はわからないのだ。

 ご存じの方がおられたら、ご指摘いただければ幸いである。

 さて、まど・みちおの戦争協力詩に関する話題にもどろう。
 「ぞうさん」「やぎさんゆうびん」などで広く知られるまどは、ちいさな生命に対する人間の横暴な態度に憤ってきた。そういう視点で戦後を生きてきた。それだけに先の戦争協力詩を書いた事実の指摘にじしんが驚いたし、「なぜ?」と自問もした。全詩集の「あとがきにかえて」はすべて謝罪の言葉で費やした。「読者であった子供たちにお詫びを言おうにも、もう五十年も経っています」「私のインチキぶりを世にさらすことで恕して頂こうと考えました」と、自分を責めた。

          *

 われわれは、いやわたしは、この姿勢を見習わなければならない。万が一意に沿わぬものを書いてしまったとはいえ、あるいは一時の気の「昂り」から書いてしまったものを、こうまでじぶんの全詩集というすべての過去の作品に対して責任を負えるものだろうか。

 書いて発表することの重さ、ひとに伝えることの責任感、そして矜持、まどにははるかに及ばないじぶんが情けなく思う。戦後65年の節目にあたって、われわれは、いやわたしは、もう一度、じぶんが書くものに対して、作品を発表するということに対して、読者に対してきちんと正対し、襟をただしてかからなければならないと思う。




散文(批評随筆小説等) 【批評祭参加作品】まど・みちおの戦争協力詩 Copyright 石川敬大 2011-03-07 10:08:03
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