【批評祭参加作品】詩を特別だと思ってる人たちへ
相田 九龍

【無為自然】

 最近、写真を撮ったり絵を描いたりする。日頃からよく風景を眺め、虫や鳥や野生動物や雨や雲を注意深く観察したりして、クソ田舎で無為自然な生活を送っている。
 そういう無為自然の視点から詩という表現を眺めると、詩が読まれないからと卑屈になったりすることがとてもバカらしく感じられる。詩という表現形態は特性こそあれ、写真や絵や書と何も変わりがないんじゃないだろうか。ひとつの文化として、人口に膾炙されているかどうかで卑屈になることも驕ることも全く無用なことで、優劣なんて人間が勝手に作っただけで大した問題じゃないし、大事なことは何を伝えたいのかとどう伝わるかだけであって形態なんか何も重要じゃない。極端に言えば、小鳥やら犬やら馬にとっては芸術なんてどれもまずくて食べられたものじゃない。そういう視点は間違っているのだろうか。



【詩は特別なものだろうか】

 ここから本題。やはり詩は特別なものだろうか。
 詩は高尚で、向上心がなくては書くことも許されず、読む力がなければ感想を言うことも憚られる代物なのだろうか。向上心や読む力がないことがそれほど許されざることなのだろうか。
 写真や絵は親しむための土壌は出来あがっている。知識もなく人の作品をバカにすりゃあ当然コミュニティから村八分にされるが、ある程度のマナーとカメラや筆があれば誰でも親しめる。
 詩にそのような土壌を求めるのは間違いなのだろうか。



【再び、詩は特別なものだろうか?】

 そのへんの人生訓や文字列とは一線を画す特別な詩があることを僕は認める。時流があり専門性があり学術や技術や歴史や思想が絡まる表現形態であり、そこに面白みがあることを僕は大いに認める。紙媒体や文学極道で賞賛される詩や近代詩として現代に残る詩を素晴らしいと思う。
 しかし、それを詩という文化の最重要地点とし、詩が特別なのだという考えからは僕は一線を置くようにしたい。そこが詩の入り口ではないことは写真や絵を例に挙げるまでもないことだ。詩という文化を支えるために必要な、詩を嗜好し消費する読者は「詩が特別であること」を求めていない。



【詩は終わっていない】

 僕は一度詩から離れて上記のようなことを考えた。そして新たな詩読体験と出会った。ポエム(笑)と笑っていた詩から人生の愛おしさを見出すことが出来たし、駄作(笑)と一笑に付していた作品の中から技巧の美しさを読み取ることが出来た。
 肩肘張らずに詩を読んでみて「これってすごいんじゃない?」と思えること。この素晴らしさを多くの人に体験して欲しい。なんでもないスケッチや、ありきたりなポートレートを眺めるみたいに詩を読むことは難しいことじゃない。
 そこからまた詩は始まる。




散文(批評随筆小説等) 【批評祭参加作品】詩を特別だと思ってる人たちへ Copyright 相田 九龍 2011-03-06 20:38:33
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第5回批評祭参加作品