【批評祭参加作品】詩と小説の境目「とげ抜き」について
石川敬大

 これは小説とだれかが言えば小説になり、これは詩だと言えば詩になるなどと戯けたことが通用したのでは裏社会の論理と同じではないか。唯一神の御託宣じゃあるまいし、そんな無名性の内にあるだれかの主観だけで、文芸のカテゴリーが決定されるなんてことが絶対あってはならない。だが、そういったことがいま罷り通ろうとしている。まぁそれだけ混乱したボーダーレス的状況にあるのだともいえるのだろう。俳句や短歌なら、客観的な物差しとしての大まかな文字数によって厳密に区分することができる。五行詩や七行詩でも、やはり明確な物差しがある。飯島耕一が詩にも定型をとか、入沢康夫が明治期には存在していた叙事詩を切り捨てるように成立してきたのが現代詩なのだと指摘した論考を展開しているのを読んだこともあるが、野放図な現代の自由詩は、その自由さのあまりに散文体を吞み込むだけならまだしも、小説のある部分すらときに吞み込んでしまうこともあるようだ。しかしそれは逆にみると、小説に取り込まれようとする詩の憐れな姿にみえないこともない。

 小説の体裁をした詩(逆は考えにくい)というのはある。いや、わたしはいまもこれが詩集?これが詩? と、疑念の思いをぬぐい去ることができない本が何冊かは確かにあった。近いところでは、わたしじしん何度か言及している2009年、第14回中原中也賞に輝いた川上未映子『先端で、さすわ さされるわ そらええわ』(青土社)がそうだが、彼女をもって嚆矢とはしない。平成19年度、第15回萩原朔太郎賞を受賞した伊藤比呂美の『とげ抜き 新巣鴨地蔵縁起』が、わたしが知る範囲では最初の該当作だと思う。伊藤が、詩のつもりで書いたのか、小説として書いたのか、それとも、とにかく書きたいから書いた、そんなジャンル分けは書いた本人に興味はない、編集者の仕事だろう的な発言を、詩人の鼎談かなにかで読んだ記憶もある。事実伊藤は、先に記したように、詩の賞を受賞したのであるから、詩集と呼ばれてもなんら依存はなかったのだろう。またこの時点で『とげ抜き』(以下そう略す)は、詩集として一般に認知されたことになるだろうし、この客観的な出来事によって、後発の『先端で』(これも以下そう略す)を、詩集としてたやすく認知することを誘引しただろうことはいえると思う。

 混乱の端緒には『とげ抜き』があった。

 もし詩の賞を受賞しなかったなら、『とげ抜き』や『先端で』をだれもが詩集として取り扱っただろうか。書店員は、図書館員は、書棚に移す時に詩集の棚に並べただろうか、それとも小説の棚に並べただろうか。しかしながらなにも、わたしはこれらの本を腐そうと思って言っているのではない。この小説に似た文体、体裁が散文の、どこに詩が潜み、どこに選者たちは詩性を感じたのか、そのことが知りたいだけなのである。かといってわたしが、この『とげ抜き』に詩性をまったく感じなかったわけではないし、断固として詩とは認めないと強く思っているわけでもない。いやむしろその逆で、わたしがこの本のどこかに詩性を感じたからなおさらそれを知りたい気持ちが涌いてきたのだ。いったいどこに詩が潜んでいるのか、と。

 『とげ抜き』の『伊藤日本に帰り、絶体絶命に陥る事』で表現されている内容の、母と娘、母にとっては孫に当たるじぶんの娘との三人の関係性のことなどを言挙げしても、詩性の在り処に関する問いにまったく接近したことにはならないだろう。『母に連れられて、岩の坂から巣鴨に向かう事』の、東京弁の「ひ」音のかわりの「し」音といった言葉に対する拘りをベースに展開するストーリーそのものにも、詩性の露頭こそ垣間見えても、詩の正体が潜んでいるとは思えない。いっそのことメタ言語があるのだからメタ詩としてのストーリー展開、ストーリーの構造、意味の飛躍、文体のリズム感、小説ではあまり使われることのないリフレーン、そしてなによりもこの伊藤の語り口調を考察したなら、もしかして、詩性が潜む草叢がみつかるかもしれない。消去法で考えてみることにしよう。すると、意味の飛躍と文体のリズム感(音律)に集約された語りの口調が残るだろう。すこし具体的に文章を引用してみよう。例えば『母に連れられて、岩の坂から巣鴨に向かう事』の33頁の最後の方の箇所だ。ここがにおう。

  ああ、巣鴨駅の階段は長すぎます、二十四、二十四、十三に、
 改札を出て、四十五、四十五、四十六とぜんぶあわせれば百九十
 七段あるんです。とても遠い、遠い。はるかに遠くなりました、
 息が切れてつろうございます。地下鉄ができてからというものお
 地蔵様にいくのが前よりもっと不便になって前よりもっとご利益
 があるような気がいたします。
  階段を。一段。一段。また一段。息切らしながらのぼりつめて。
 ぽっかりと外に通じる口から出るのです。都営六号線板橋本町駅
 の出口であります。やっと外に出たと思ったら環七の高架の下。
 不穏な空気。そしてそこから岩の坂。くだり坂。

 文体に独特のリズム感があって心地よい意味の飛躍がある。「一段。一段。また一段。」とか「不穏な空気。そしてそこから岩の坂。くだり坂。」といった句点の多用によるテンポ感が文体に浮力を生じさせている。そしてそこには、庶民的な義理人情に訴える浪花節の口調や、浄瑠璃、説経節、祭文語りなどといった浪花節の基礎になっている口承文学などを想起させるものがある。現代の巣鴨駅などが出てきたり、『渡海して、桃を投げつつよもつひら坂を越える事』ではカリフォルニアが主要舞台で夫との暮らしぶりに焦点が当てられているにもかかわらず欄外に、古事記や宮沢賢治の『セロひきのゴーシュ』とともに説経『信太妻』より「声をお借りしました」とあって、やっぱりそうかと納得するものを感じるし、江戸文化に直結したものも感じて、どこかとても懐かしくて不思議な世界を体感してしまうのだ。

 声を借りる手法は、伊藤の発明品でも発見でもありはしない。以前から詩人のあいだではけっこう採用されている手法であり、特に吉岡実の晩年においては、その手法を徹底的に実験していることは知っている人は知っている事実であろう。だからといってその手法を採用していることが、この作品をして詩であることの保証にすることにはならないのは言うまでもないのである。

 浄瑠璃は、語り物としての叙事詩的であり、説経節は近世初期の語り物文芸であるから、伊藤の『とげ抜き』を江戸文化に直結する口承文芸だとみるならば、この本は、戦後詩はおろか昭和のモダニズム、さらに近代詩の草創期にあった新体詩以前にまでたやすく遡ることになる。伊藤がはたしてそこまで考えて『とげ抜き』を書いたのだろうか。そして、この本を詩集として朔太郎賞という冠を被せた選者たちの意識に、そういった意識があったのだろうか。それよりなにより、初出の「群像」の編集者は、伊藤に小説を頼みはしなかったのか。毎月一作ずつ一年間、はじめから散文詩として、あるいはノンジャンルの読み物を要求したのだろうか。わたしの謎は深まるばかりだ。だれか、これに回答を与えてはくれないだろうか。話をもどそう、選者の話だった。その選者たちに、もし口承文学としての江戸文化に直結したものをみていたとするなら、エポックメーキングとなるべく待望されていたこの本は、ターニングポイントとなることも確約されていたことになる。そしてまた『先端で』によって中也賞を与えた選者たちの意識もまた、そのことをしっかり認識していたのだとも言えるだろう。


散文(批評随筆小説等) 【批評祭参加作品】詩と小説の境目「とげ抜き」について Copyright 石川敬大 2011-03-06 10:05:57
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