【批評祭参加作品】遊びごころという本気 ー辻征夫試論ー
石川敬大

 前号の「どんな本読んだ?」に、わたしは辻征夫の『貨物船句集』をとりあげ、詩のフィールド・ワークの領域拡大に寄与する俳句表現という捉え方で一文を書いた。しかし、辻征夫の試論という視点で書く時、その延長線で論を組み立てるのは困難で、視点を一八〇度反転させ、辻征夫を取り込むのではなく辻征夫に取り込まれる方法、のめりこんで本質を捉え、掴んで持ち帰る、必殺のテロリスト的手段を選択する以外にないと思う。
 辻征夫にとっての俳句とは、晩年に書いていた小説の表現領域とともに、詩を中心に据えた時には裾野か周辺に位置する。『貨物船句集』から書き出したのだから、ここから核心に到達するべく遡及する方法で辻征夫の表現主体に迫ってみよう。
 わたしには辻の詩が、ある物語を構築したり、設定した舞台のなかで、発話者の内面の情感を平明な言葉で吐露することによって成立しているように見える。一方俳句は、詩のエッセンスを摘出することによって、あるいは一篇の詩の核や核に近い部分を切り取ってくることによって成立しているように見える。侃侃六号では四篇を引用しているので重複を避けてこんな句を引用してみたい。

  西瓜ひとつ浮かべてありぬ洗濯機
  笹舟のなにのせてゆく夏の川
  湯あがりの浴衣で越える今年去年
  少々は思索して跳ぶ蛙かな
  夏館燻製のごとき祖父と立つ

 景観の描写が勝ちすぎていていささかボルテージが下がっている気もするが、切り取ってきた情景に発話者の情感が添付されているところが辻の表現の特徴であり、軽妙なとぼけた味と対象との距離のとり方の絶妙さが秀逸であると思う。
 辻の作品を詩集成などで通読する時、作品の傾向に大きな変化は感じられないが、詩集によっての工夫は感じられる。その最たるものが『俳諧辻詩集』だろう。詩を書く仲間などと創めたという句会の影響なのか、春夏秋冬と全体を四つのパートに分けて各詩篇の冒頭に自作の俳句を置き、二行目から最終行までを丸括弧でくくっている。こんな感じだ。

 さみだれや酒屋の酒を二合ほど
 (雨ってのは
 見ているものだな
 傘屋の軒
 酒屋の土間
 どこからでもいいが
 黙って見ているのがいちばんいい
 するとなにやらてめえのなかにも
 降りしきるものがあるのがわかってくる
 なんだろうこの冷たさは
 なんて
 ……
 雨がやんだら?
 ばかやろう
 さっと出て行くのさ)    『五月雨』全行

 噛めば苦そうな不味そうな蛍かな
 (だれだいこんなの作ったのは
 土手の野良猫です?

 ま いいや
 鰹節で一献さしあげたいと
 そいって呼んでおいで)   『蛍』全行

 なんだか冒頭の句の解説のような、あるいは句によって得られた情景や設定を展開させたような詩になっている。『五月雨』のおわり三行の「雨がやんだら?/ばかやろう/さっと出て行くのさ」や、『蛍』の「だれだいこんなの作ったのは(中略)ま いいや/鰹節で一献さしあげたいと/そいって呼んでおいで」などの箇所は、江戸落語の語り調で、連綿とつづいてきた俳句の伝統がこの語りを呼び寄せたのか、辻の資質が呼び寄せたのか、そういったものが詩集全体を支配している。先に指摘したように、軽妙なとぼけた味と対象との距離のとり方の絶妙さが辻の特徴なのだが、エッセイではそれとは対照的な文章を書いている。まず『あとがきのページで』の『遊びごころと本気』では、仲間と始めた句会のことを「遊びごとを始めるにあたって(中略)、本気でやろう(中略)遊び半分の、いいかげんな遊びほどつまらないものはない」と書き、最後の『覚書』でも「遊びといい、楽しみといいながら、詩のこととなるとついむきになり、詩の新鮮さを保つためには、まっこうから、力を尽して書かねばならぬなどと本気で思いつめたりしてしまう」と書いている。ちょっと意外ではないだろうか、辻の詩篇群が「力を尽して」「本気で思いつめ」て書かれた結果であることが。ということは、戦略的に練られ、煮詰められた結晶としての詩篇群であったのだろうか。辻はこの詩集で萩原朔太郎賞を受賞するのだが、前橋での受賞式の際の富沢智との対談で辻は自説をこう述べている。「日本語なら日本語を使っている集団があるわけだけれども、言葉自体にね、実用とはちがう構造体に結晶していく性質があるんじゃないかと思う。(中略)そういう機能が敏感にはたらくように、長い時間をかけて自分を訓練したやつが詩人だと思う」「読書から得たものも、他人の経験も、人間の経験として自分の中にあるんですね。そういうものを全部総合して、一篇の詩ができたらいいなと思っている」「詩人というのは、あるとき、その時代の言葉が通り過ぎる場所なんじゃないか」辻は、『俳諧辻詩集』の連作詩篇を書くにあたって「現代詩は痩せすぎたのではないかという思いから(略)江戸以来の俳句は簡潔な認識と季節感の宝庫であり、それは気がついてみれば現代詩にとっても貴重な遺産だった」と書き、『蛙の姿勢』では、「詩はたえず清新なものを求めながら、同時にみずからの淵源をも探究せずにはいられぬものらしく、(中略)詩もまた万葉以来の詩歌の流れの中に立っている」現代詩が詩歌の歴史と隔絶しているのではない、認識の変化と「何もないと感じたときの驚き、裸一貫の寒さ、そしていまごろこういう地点に立たざるをえない無惨さ。何よりもこの無惨さがいま詩がはじまる場所のように思える」という現状認識を語っている。無惨な地点にいる認識と、詩歌の系譜に連なる自負心とは一見背反することのように見えるが実は表裏一体なのではないか、追随する者がいない孤独と詩歌の歴史を俯瞰できる位置の獲得とは同一地平のものなのだ、きっと。
 身近なものへの視線から物語の構築、情景設定による舞台づくり、情感を個のレベルから日本語を使う集団、架空の発話者のレベルへと飛躍させる、そのプロセスを詩の方法としているのであろう辻征夫の、その方法論がいつからそうであったのか、以前は寡作で書けない時期もあった状況から一転して多作に転じた転換点を『かぜのひきかた』に設定する時、腑に落ち、つじつまが合うように思う。『かぜのひきかた』以前の辻の詩作品が寡作のカテゴリーに属していたというのは、ある苦悩から出立したであろう内的衝迫が、結果であり結晶体である詩作品となるまでの行程を紆余曲折して、または迷い路に迷って苦悶していたからではなかったか。それが『かぜのひきかた』以後、死去する直前のもう詩は書かないと他人に語るまでの間あれほどの多作に転じるのは、辻の内面から詩作品までの行程にバイパスができ、それが完成を見たからに違いない。その完成したバイパスによって後に『俳諧辻詩集』の「遊びごころ」の「本気」さが生まれたのではなかったか。
辻は、晩年こそたくさんの賞を受賞したが、時代の思潮に反する表現の平明さゆえか、一九六二年に刊行した第一詩集『学校の思い出』以来ずっと不遇なほどに賞とは無縁であった。二十五年後の一九八七年の「藤村記念歴程賞」が最初である。メルクマールとなり転換点ともなった詩集こそがこの『かぜのひきかた』である。佳品が揃っている、次に引用してみよう。

 ランドセルしょった
 六歳のぼく
 学校へ行くとき
 いつもまつおかさんちの前で
 泣きたくなった
 (中略)
 ランドセルしょった
 六歳の弟
 ぶかぶかの帽子かぶって
 学校へ行くのを
 窓から見ていた
 ぼくは中学生だった
 弟は
 うつむいてのろのろ
 歩いていたが
 いきなり 大声で
 泣きだした
 まつおかさんちの前だった
               『まつおかさんの家』より

 こころぼそい ときは
 こころが とおく
 うすくたなびいていて
 びふうにも
 みだれて
 きえて
 しまいそうになっている
 (中略)
 それはかぜではないのだが
 とにかくかぜではないのだが
 こころぼそい ときの
 こころぼそい ひとは
 ひとにあらがう
 げんきもなく
 かぜです
 と
 つぶやいてしまう
 (中略)
 こころぼそい
 ひとのにくたいは
 すでにたかいねつをはっしている
 りっぱに きちんと
 かぜをひいたのである
               『かぜのひきかた』より

 これを読んでいると、わたしはなぜか「かぜのひきかた」を詩の書き方と読んでしまう。かぜをひくのと詩を病む(取り憑かれる)状態とはどこか似ていないだろうか。詩作する時というのは、ある種肉体を失くした精神状態になって言葉(日本語の歴史の束)と一体になるのではないだろうか。永いこと詩作をつづけていると詩の正体がわかったとか、詩作の方法を掴んだように思うことがある。辻は、それをこの詩集によって掴んだのではないか。この詩集以後、多作になり『ヴェルレーヌの余白に』で高見賞、『河口眺望』で詩歌文学館賞と芸術選奨文部大臣賞、『俳諧辻詩集』で萩原朔太郎賞と現代詩花椿賞と、総なめの状態となる。しかもそれは、『かぜのひきかた』からわずかに十年以内での出来事なのだから驚異的である。『河口眺望』の表題作の前半部を次に引用してみる。

 双眼鏡で遠くを見ていた
 遠くには海が 海には巨大な貨物船が
 ゆっくりと航行していたが
 海が見たいわけではなかった
 まして遠くを 遠くには夢が
 などとばかげたことを思って
 いるわけではなかった
 ただ悲哀のネッカチーフを首に巻いて
 あしたは崩れるにちがいない
 瓦礫の堤防に立って遠くを見ていた
      (以下、省略)

 現代詩文庫の解説『現代的抒情の根源へ』で、野沢啓は辻の詩法を「表現を呼び寄せる仮構の意志のなかに過剰なまでの演技性がもちこまれている」と指摘しており、わたしはそのことに同感する。この詩もなんらかのドラマがあるわけではない。堤防の上から遠くを見ていた(わたし)ひとが、後半では見られる存在となる不思議な展開の詩である。自己演技で、遠くを見ていたひとを見ていたのもただの想像のシーンかもしれないのだ。この詩では何が起こるのでもなく、自己演技として感情が動き言葉が動いた、すべては辻征夫の内面の舞台での一人芝居だったのではないか。詩集『落日』の表題作『落日――対話編』で、サブタイトルにもあるように「夕日/沈みそうね/…/賭けようか/おれはあれが沈みきるまで/息をとめていられる」から始まる対話形式で書かれた詩篇もあるが、詩は内面に住む女性と対話することだってできる。もし純粋な他者と対話したとしても、他者を理解できる範囲は自分自身の理解の許容範囲内でしかない。
 これまで辻征夫の詩の特徴を語ってきたが、辻の場合特に、生まれ育った環境と無縁ではないだろう。江戸下町の人情に篤くおせっかいで、精神的にはダンディズムの強がりで見栄っ張り、痩せ我慢など苦にならない気質。仕事っぷりはフィールド・ワークよりデスクワーク、息抜きの散歩の途上のスナップ・ショット的な詩、わたしは開き直って言い張りたい、辻征夫は下町っ子の詩人であり、その環境を甘受していた詩人であったのだと。それゆえに辻征夫は、「本気で思いつめ」た「遊びごころ」を全開放させて生きたかったのではなかったかと。
 最後に、エッセイ集『かんたんな混沌』(思潮社刊)から『むきだしの悲しみ』の一部を抜粋する。「人間社会にはどうも暗黙の了解事項(略)があり、(略)不安な人間はそれをなんとかさぐりあてながら生きていて、そのためにごく自然に相手または第三者への気遣いも生まれ、礼儀作法も生じて来ると思うのだが、中原中也はこの微妙な筋目を見出すことが出来ず、悲しみのあまりにただもうらあらあ歌いながら人生を通過して行った人間のように思える。」(中略)「『私は私が感じ得なかったことのために、罰されて、死は来たるものと思ふ』という言葉に、かつてのダダさん、中原の到達点の深さを感ずるのである。『私も、すべてを』、全世界を感ずる者でありたいという人間にとって、この世の中での身の処し方など問題にもならなかった」中略をはさんで引用したこれらの文章に、下町で生きた辻の気持ちが色濃く表れている気がする。
 それは、他人に対する気遣いができない弟でも見守る愛情あふれる視線であり、しがらみから開放されて「全世界を感ずる者」でありつづけようとした中原中也への強い羨望の気持ち、どちらもが辻征夫の内面に強く存在していたということなのだ。


散文(批評随筆小説等) 【批評祭参加作品】遊びごころという本気 ー辻征夫試論ー Copyright 石川敬大 2011-03-05 10:01:41
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