【批評祭参加作品】石原吉郎の可能性 ー石原吉郎試論ー
石川敬大
吉原幸子が亡くなってもう何年になるだろう。その吉原と近しい間柄だった石原吉郎が亡くなってからでもすでに三十年が過ぎた。一年がとても早く、時代の移ろいのスピードが加速度的に年々増してきている気がする。そんな現代にあって、石原吉郎とはどんな意味を有する存在であったのだろう。とはいってもいまは、確かに急速に色あせ遠ざけられ忘れ去られてゆく存在でしかないように見える。しかしこの先どこかの時代の曲がり角で、例えば中原中也や宮沢賢治、金子光晴のように恒常的な復活を果たすかもしれないのである。それだけの資質を持っていた詩人で、このまま忘れ去られる存在ではなく、いまは一時的にこの世の舞台から楽屋に引っ込んで出番を待っている大物スター、そんな意味を有する存在である気がする。
『北条』『足利』『満月をしも』といった後期の詩集群と、『北鎌倉』という歌集の、そのタイトルを列記したとき、すぐに了解できるのは彼が美意識の強い人であり、ある美の磁場を有した人であるということであった。また反面そこに隠蔽されている、無味乾燥な観念性が勝った方向性だけの詩を書き、理解を拒絶する冷厳さも併せ持った人であることをも嗅ぎとって、なんだか近づき難い存在でもあると感じていた。それは、石原という個体の避けては通れないラーゲリ体験から発しており、戦後世代にとってはそのことが鬱陶しい障壁となっていることは否めない事実であるように思われた。しかし石原の詩は、それらの全てを受け入れたとしても時に美しく、儚く、歯切れよく、尊敬するに足る資質を持ち合わせた詩人であることもまた確かなことのように思われるのだ。
吉原幸子と同じく生前、石原と親交があった清水昶は、鮎川信夫、谷川俊太郎との対談の席で、「石原吉郎論を書いた最初、とにかく体験の落差がある、これはもうかなわない」と発言したさい、これを受けて鮎川は「体験から離れたかったんじゃないかね。体験と無関係でも美と感ずるような世界をつくりたかったんじゃないか」と返しているが、詩とは言葉による世界の構築であるから、どんなにすごい体験をした人の詩作品であっても、詩が誕生した元の体験に還元するのは不可能なことで、体験をすべて読み解かなければその詩作品を読み解いたことにはならないなどということもできやしないだろう。ただ、彼の場合どうしても体験と密着して読まれてしまうことが多い事実は否定しようがない。評論家の粟津則夫は、現代詩読本『石原吉郎』のなかで詩篇『夜の招待』や次に引用する『夜がやって来る』を解説しながら核心を衝いた面白いことを書いている。
駝鳥のような足が
あるいて行く夕暮れがさびしくないか
のっそりとあがりこんで来る夜が
いやらしくないか
たしかめもせずにその時刻に
なることに耐えられるか
階段のようにおりて
行くだけの夜に耐えられるか
潮にひきのこされる
ようにひとり休息へ
のこされるのがおそろしくないか
約束を信じながら 信じた
約束のとおりになることが
いたましくないか
「ことばの動きと心の動きとのあいだにかすかなずれのようなものがあ」り、その「ずれを形作っていた」「ふたつの動きが」「ぎりぎりとからみあってゆくさまを、ほとんど一行ごとに見てとることが出来る」「心の動きとことばの動きとが、詩を形作る要素としてともに生かされ」「ずれそのものが、或る積極的な持続を獲得している」と。
つまり、体験と詩句との間にある緊張関係にこそ詩の核心はあるのだと。あるいは、こんなふうには言えないだろうか。自分自身をぎりぎりと締めあげてゆく息苦しさの、断罪してゆく厳しさの、自問自答の詩であるとは。「さびしくないか」「いやらしくないか」「耐えられるか」「おそろしくないか」などの詩句に、それらのことが表現されている気がする。そしてまさしくこの表現方法こそが、石原吉郎の詩が石原吉郎の詩となる最大の要因とはなっていないだろうか。いったい彼は、そのことにどれほど自覚的だったのだろう。詩の書き出しの一行目から、詩の結末が見えていただろうか。トータルな詩作品の、構築した世界の完成をめざしたことが一度としてあっただろうか。また、同じ詩作を試みる者として別の疑問も浮上してくる。この詩篇が本当に推敲を重ねたものであるのか、それとも不自然さを装った自覚の上に築かれたものなのか、と。それほどに、先に引用した詩句の改行箇所はヘンだ。次のような詩がある。
なんという駅を出発して来たのか
もう誰もおぼえていない
ただ いつも右側は真昼で
左側は真夜中のふしぎな国を
汽車ははしりつづけている
(詩集『サンチョ・パンサの帰郷』より「葬式列車」一部)
われらのうちを
二頭の馬がはしるとき
二頭の間隙を
一頭の馬がはしる
(略)
われらのうちを
二人の盗賊がはしるとき
二人の間隙を
一人の盗賊がはしる
われらのうちを
ふたつの空洞がはしるとき
ふたつの間隙を
さらにひとつの空洞がはしる
(同詩集より「馬と暴動」一部)
これほどに徹底した、スタイル重視の詩篇を書く詩人であるのだから、先の詩篇『夜がやって来る』の改行箇所の恣意さ加減がよけい奇妙に見えてしまう。はたして、石原の内側にあって自覚と無自覚とが縞を成してでもいると言うのだろうか。
例えば、先の紹介した座談会の席で鮎川は「書きつつあるプロセスのなかで(略)彼もわからないでやっている(略)それがむしろ、彼の詩の面白さ」と語っているし、谷川は「彼は最後に無限に深読みできる一行に収斂していこうとする(略)そういうタイプの詩人」と語っている。生涯にわたって、独自のスタイルを貫いたというタイプの詩人がいる。石原吉郎はその初期詩篇から、一篇ごとに独自のスタイルを求めた詩人であったのかもしれない。であるからこそ、詩集のなかに多様なスタイルが混在したのだろうし、短歌、俳句と形式に対する自在さも持ちあわせていたのじゃないだろうか。あるいは、こう言ったほうが真実に近いのかもしれない。それは、カタチにならない、沸々と滾りたつものが、その時々の気持ちにフィットする表現スタイルと出会って顕在化していった過程であるのだと。後期の詩篇を引用してみよう。
いわれを問われるのはよい。問われるままに
こたえる都であったから。笠をぬぎ 膝へ伏せ
て答えた。重ねて北条と。かどごとに笠を伏せ
南北に大路をくぐりぬけた。都と姓名の その
いわれを問われるままに。
(詩集『北条』より「北条」全行)
足利の里をよぎり いちまいの傘が空をわた
った 渡るべくもなく空の紺青を渡り 会釈の
ような影をまるく地へおとした ひとびとはか
たみに足をとどめ 大路の土がそのひとところ
だけ まるく濡れて行くさまを ひっそりとな
がめつづけた (詩集『足利』より「足利」全行)
安藤元雄は、『現代詩を読む』(小沢書店)で、「死の直前の時期に石原が書きつけていた作品は、詩であれ歌であれ、そこに言われようとしていることの意味などはほとんど問題とならずに、ただ、ほとんど瞬間的な思念のほとばしりの如きものが、そのほとばしりのむなしい激しさにおいて言葉になっている」と書いているが、そうだろうか。初期詩篇こそ確かに「瞬間的な思念のほとばしり」が、「切迫した語調」(谷川)となって見られたのだが、それらがこれら後期詩篇では影を潜め、所作の静かな佇まいばかりが強調されて、淡々としたパステル調の世界となっているように思われる。これを一種の衰弱と呼ぶのかもしれないし、「枯れた」(鮎川)のだとも言えるのかもしれない。次のような詩がある。
牢はかぞえて
三つあった
はじめの牢には
錠があった
つぎの牢には
人があった
さいごの牢は
人も錠も
あげくの果ては
格子もなく
風と空とが
自由に吹きぬけた
(詩集『足利』より「牢」全行)
また、後期詩篇については鮎川がこんなことも発言している。「体験と無関係でも美と感ずるような世界をつくりたかったんじゃないかな」と。石原吉郎はシベリア抑留という特異な体験をしたのかもしれない。しかしながら、彼が詩人となりおおせた理由は、その特異な体験とは距離を置いて相対化した意識を言語化し整えたことにあるのだし、彼の詩が成立するのもそこにこそ根拠があるといえるだろう。
先に引用した安藤元雄の同書のなかにも鮎川と同質の言質が見える「彼の詩は、きわめて純粋に言葉それ自体でのみ書かれた詩としての性格を、年とともに明らかにして行った」と。肉体の体験を言語に置き換えていったその行為こそが石原吉郎を詩人たらしめている理由のすべてであるだろう。石原の詩を読む時にはその転換力の迫力、意識の力技をこそ読むべきなのかもしれない。
ぎりぎりと締めあげてゆく息苦しさの、断罪してゆく厳しさの、自問自答の詩が辿り着いた地点は、言葉それ自体が自立する世界、それは体験を振り捨ててきた歴史であると同時に、詩のカテゴリーさえも突き抜けてしまった地点であったのかもしれない。それ故に、石原の詩は自死同然の死の先にはない。彼は、自然な死を演出して逝ったんじゃないだろうか。
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第5回批評祭参加作品