【批評祭参加作品】近代詩へのリンク ー富永太郎試論ー
石川敬大

 富永太郎という詩人を知ったのは、わたしが詩を書き始め、相前後して中原中也を知った時期とパラレルな関係にある。実際、中也がその生地に記念館ができるほど人口に膾炙されることがなかったなら富永は、おそらく多くの無名詩人群のなかに埋没していただろう。なぜなら生前に一冊の詩集もなく、中也が寄稿し、小林秀雄が同人として属していた詩誌『山繭』に、八篇の詩を発表したのが生前のすべてであってみれば、たとえ同窓(一級下)で、フランス近代詩を分母にともに苦悩を味わった小林や、七歳年少で、彼に家庭教師として仏語を習い、戦後作家への道を歩み始める大岡昇平の後押しがあったとしても、それは回避できなかっただろう。友人の正岡忠三郎(子規のいとこ)や村岡康男の奔走で、没後に詩集が出版され「富永の作品を高く評価せず、やっと『焦燥』を採る程度」(北村太郎『縁辺の人』)であった小林が、文芸評論家となって中也のポピュラリィティの礎を作り、大岡が評伝にまで手を広げることがなかったなら、これほど丁寧で精緻な『研究 富永太郎伝』が書かれることもなかったはずだ。そのことは大岡の自我の問題ともフュージョンして切実であり、中也はいざ知らず富永に関する限りその仕事は実証面において抽んでており、これを凌駕する論考にはいまだにお目にかかっていない。手もとに中原中也記念館・秋の企画展(平成十三年度)「秋の悲歎・富永太郎」のリーフレットがあって、中也が母フクへ送った「詩人の死顔です」の付記がある富永の臨終写真と、「これは偉い人だったんだよ」と何度も中也が弟たちに語ったという記事が載っていて、「ダダさん」(当時ダダイズムかぶれの中也を、富永はそう呼んでいた)であった中也に、表現スタイルを更新させるきっかけとなったフランス近代詩を教え、やがてランボー詩集に結実することとなるその端緒の位置にいたのが富永であった。
 富永の作品と人となりについては、思潮社版現代詩文庫『富永太郎詩集』が詳しいが、ここではわたしなりの切り口を提示したい。よく知られているように富永は、ボードレールを原書で読みたい一心から東京外国語学校仏語部に入学した。『山繭』四・五号に『人工天国』を訳載し、思潮社版詩集に掲載されている詩もランボーの『饑餓の饗宴』を除きボードレールで占められている。生前発表作品は『山繭』一号の『橋の上の自画像』『秋の悲歎』から六号の『断片』(創作時期を『鳥獣剥製所』後と大岡は示唆している)までの八篇だが、わたしは詩法的に見て『橋の上の自画像』はボードレール調、『秋の悲歎』はランボーのそれであると言いたい。韻文と散文の違い以上にこの二篇には技法的に断絶が感じられるからだ。さらに言えば、発表順に並べられた詩の『無題 京都/富倉次郎に』と『断片』の間にもそれは感じられ、いっそ大岡の指摘通り『断片』を『鳥獣剥製所』の後に置いた方が、その変化に正当性が顕わになると思われる。『秋の悲歎』の詩稿に関しては、つぎのようなエピソードがある。「こんなものが出来たから近況報告がはりに送つてみる。はゝあランボオばりだな、と言つてもいゝ。とにかく日本流行の『情調派』でないといふレッテルをつけてくれたら本望だ」(大正十三年十月二十三日付)と小林に手紙を書き、この詩を同封している。また村井康男にも同じ詩稿を送りつけ「先日の散文詩届いたかしら。即刻返事をよこすこと」(同年十一月十五日付)と返事を待ちわびる手紙を出している。これに先立つ十月十一日に、最初の喀血をしていることなど時系列的に事実を踏まえれば「即刻返事」と書きつけたところに、焦燥と作品への自信とも不安ともつかない苛立ちが表われていて、オリジナルの詩を試み、ボードレールの詩を翻訳していたものの、絵画への情熱も捨てきれずにどこへ発表するというあてもないまま焦燥感ばかりを募らせていた富永と比べ、小林は東大仏文在学中で三田派の同人誌にも参加、小説『一つの脳髄』を発表して注目される存在であった。その小林から齎されたランボーの『地獄の季節』の詩篇『別れ』は「この詩を大きな紙に書き、下宿の壁に貼りつけて毎日眺めてゐる」(『研究 富永太郎伝』)ほど決定的な事件であり、この詩を咀嚼し独自の色味を加えて成ったのが『秋の悲歎』であった。

  もう秋か。――それにしても、何故に、永遠の
 太陽を惜むのか、俺たちはきよらかな光の発見に
 心ざす身ではないのか、――季節の上に死滅する
 人々からは遠く離れて。  (「別れ」冒頭部より)
 
 つぎに『秋の悲歎』も引用してみよう。両者の相似と相違はより明らかだろう。

  私は透明な秋の薄暮の中に墜ちる。戦慄は去つ
 た。道路のあらゆる直線が甦る。あれらのこんも
 りとした貪婪な樹々さへも闇を招いてはゐない。
  私はたゞ微かに煙を挙げる私のパイプによつて
 のみ生きる。あの、ほつそりとした白陶土製のか
 の女の頸に、私は千の静かな接吻をも惜しみはし
 ない。       (「秋の悲歎」冒頭部より)

 わたしは何も富永の詩がランボーの日本語版であると言いたいのではないし、北村が解説で「マラルメの散文詩『秋の悲歎』と『冬の戦慄』が即座に思いうかべられる」と書くのを肯定するわけでもない。たとえ「漢語と翻訳体というものの結合から成り立って」(大岡)いて、スタティックで硬質、どこかパセティックでキリスト教的な祈りの思いも併せ持ち、短いセンテンスの断言口調で、垂直性すら感じられるところに、ランボーの詩法を濾過した相似形を見るものの、「対自的な意識の構造をもったメタフィジカルな世界」(北川透『中原中也の世界』)には、実は観念が勝って社会との隔絶感が色濃く、ランボーの対社会的な批評意識が強い詩とは一見相似ても相違の方が顕わだろう。たとえばこの時期の作品で発表しようとしてされなかった未刊詩篇『熱情的なフーガ』の四連「このロコゝ宮殿の/脚を断て。」と六連「大理石の噴泉の/唇を噛め。」に度重なる推敲の跡があり(大岡)、四連は「このロコゝ風の殿堂をこぼて」「この殿堂をこぼて啖らえ」と変化した後に決定稿となり、六連は「あでやかなる大理石の噴泉をとめよ」「噴泉を吸え」「噴泉を涸らせ」と推敲してより身体的な動きにシフトさせているところなど、対自的に収斂してしまう富永の詩の特徴がよく表れている。富永が逝く一年前の大正十三年九月に関東大震災が起こり、同じころ「赤旗」が創刊、有島武郎が心中事件を起こす。世間は遅れてきたヨーロッパの世紀末的風潮の厭世的気分が横溢していたという。しかし「社会への無関心、自然現象への冷淡さは、彼の一特徴であ」(北村)り、富永は世間に煩わされることを嫌った。関心事は自我であり、衰弱してゆく肉体であった。ゆえに「私は私自身を救助」(『秋の悲歎』)することだけが彼の生活、言文一致体の口語詩のエクリチュールに転化された彼の生のすべてであった。身体の衰弱を基礎とした鋭敏な感受性にとってそれは、ボードレールの世紀末的デカダンスに親近感を覚えるとともに、日本の近代と地続きである西欧との出会いでもあった。フランス・サンボリズムがボードレールからランボーへどのように引き継がれたか詳らかに述べることがわたしにはできないが、表現はより尖鋭化され戦闘的に継承されただろうことは想像できる。したがって富永がランボーへとシフトするのは当然の帰結であった。小林がどこかに書いていたように、富永にとってランボーとは近代からの遁走であり救助であった。それほどまでに富永の表現スタイルの更新は足が速かったと言える。さらにわたしがここでつけ加えておきたいことは、鮮烈な書き出しから転調した後の「かの女」に対しての「千の静かな接吻」と続く展開についてだ。私生活による人妻との恋愛事件が二十歳という多感な時期に与える影響と、姦通罪のある時代背景、両親が表立って先方と交渉に当り仙台を去ることを条件に示談が成立したという当事者意識の喪失、相手の女に裏切られた敗北感など二重三重に屈折した思いを抱えたことから、失われた女への思いは終生のテーマとなり、また永住しようとして渡海した上海で罹患し死を抱え込むことともなった。だが、私生活の三面記事的な色メガネで富永の詩を読み直して何が明らかになるだろう。事実は表現の背後に隠れ、作品を覆う雰囲気となってたゆたうだけだ。結局、詩のエクリチュールの要諦は、なにを書くかではなくどう表現するかなのではないだろうか。この時代にあって富永の作品の飛びぬけた表現レベルの高さ、内面を言語化する天才的な言語感は圧倒的だ。たとえそれがサンボリズムから派生した、漢語調の抜けきれない生硬なものであったとしても、代替のきかない気高さを保持している。
 富永が、ボードレールに入れあげるきっかけが何であったかその確かな資料はどこにもない。十一歳で小柳津信子に英語を学び、十八歳で第二高等学校(東北大学)理科乙類(ドイツ語)入学からニーチェ、ブレーク、ショーペンハウワーなどドイツ語の哲学書に親しみ、フランス近代詩に接近することになるのだが、驚くのはベルギーの詩人メーテルリンク、イタリアの未来派詩人マリネッティ、ルネ・ギルの『言語考』にまで食指を伸ばしている点だ。大岡は富永の最初の詩『深夜の道士』(大正十年)について、「外面的には日夏耿之介のかなり顕著な影響が窺はれるが、内容はショーペンハウエルの厭世的神秘主義である」(『研究 富永太郎伝』)と記しているが、真偽はともかくいまは留保するしか手立てがない。さて、もう一冊古い文庫本がある。永井荷風訳著の『珊瑚集』で、昭和二十八年一月十五日発行の新潮文庫版だ。内容は、「大正二年籾山書店発行の初版本を原典と」すると記して、ボードレール七篇、ランボー一篇、ヴェルレーヌ七篇、ゴーチェ一篇、ピカール一篇、レニエー十篇ほか十三名の詩人、三十八篇の詩が掲載されている。これに遡る明治二十二年には森鴎外らの手で新体詩として声望が高い『於母影』(新声社)が刊行されている。収められている詩はバイロン、ゲーテ、ハイネ、ゲロックら十七篇、つづいて上田敏の訳詩集『海潮音』(本郷書院)が明治三十八年十月、ここにあのヴェルレーヌの名高い詩「秋の日の/ヸオロンの/ためいきの/身にしみて/したぶるに/うら悲し/(略)」やカール・ブッセの「山のあなたの空遠く/「幸」住むと人のいふ」が掲載された。その序文で敏は、マラルメの詩論の一部を紹介して象徴詩のことを語っている。「詩に象徴を用ひること、(中略)之が助を藉りて詩人の観想に類似したる一の心状を読者に与ふるに在りて、必らずしも同一の概念を伝へむと勉むるにあらず。されば静に象徴詩を味ふ者は、自己の感興に応じて、詩人も未だ説き及ぼさざる言語道断の妙趣を翫賞し得可し。故に一篇の詩に対する解釈は人各或は見を異にすべく、要は只類似の心状を喚起するに在りとす」と。これに呼応して現れた岩野泡鳴が訳したアーサー・シモンズ「表象(象徴)派の文学運動」(大正二年十月新潮社刊)は、「富永のほか、中也、小林秀雄に決定的な影響を与えた」(企画展リーフ)とされている(西脇も十九歳の時に影響を受けている)。この本と相前後して刊行されたのが先に記した永井荷風訳著の『珊瑚集』だった。ボードレールの『秋の歌』とランボオの『そぞろあるき』を引いてみよう。

 吾等忽ちに寒さの闇に陥らん、
 夢の間なりき、強き光の夏よ、さらば。
 われ既に聞いて驚く、中庭の敷石に、
 落つる木片のかなしき響。

 冬の凡ては――憤怒と憎悪、戦慄と恐怖や、
 又強ひられし苦役はわが身の中に歸り来る。
 北極の地獄の日にもたとへなん、
 わが心は凍りて赤き鐵の破片よ。
           (「秋の歌 一」の二連まで)

 蒼き夏の夜や
 麥の香に醉ひ野草をふみて
 小みちを行かば
 心はゆめみ、我足さはやかに
 わがあらはなる額、
 吹く風に浴みすべし。
 われ語らず、われ思はず、
 われただ限りなき愛
 魂の底に湧出るを覺ゆべし。
 宿なき人の如く
 いと遠くわれは歩まん。
 戀人と行く如く心うれしく
 「自然」と共にわれは歩まん。
          (『そぞろあるき』全篇)

 一方、これらの訳詩に比して富永はどうだっただろうか。ボードレールの散文詩『港』を以下に引いてみよう。

  港は人生の闘に疲れた魂には快い住家である。
 空の広大無辺、雲の動揺する建築、海の変りやす
 い色彩、燈台の煌き、これらのものは眼をば決し
 て疲らせることなくして、楽しませるに恰好な不
 可思議な色眼鏡である。調子よく波に揺られてゐ
 る索具の一杯ついた船の花車な姿は、魂の中にリ
 ズムと美とに対する鑑識を保つのに役立つもので
 ある。とりわけ、そこには、出発したり到着した
 りする人々や、欲望する力や、旅をしたり金持に
 ならうとする願ひを未だ失はぬ人々のあらゆる運
 動を、望楼の上にねそべつたり防波堤の上に頬杖
 ついたりしながら眺め、もはや好奇心も野心もな
 くなつた人間にとつて、一種の神秘的な貴族的な
 快楽があるものである。     (『港』全篇)

 時代によって刻印された言語表記の送り仮名や促音処理などの扱いに目を瞑れば、先に引いた永井荷風訳著の『珊瑚集』のボードレール『秋の歌』、ランボオ『そぞろあるき』との違いは一目瞭然だ。翻訳は、決して外来語の母国語への置き換えなどではなく、その翻訳者の内部で外来語を消化(置換)する過程においてなされる創作なのだとわたしは言いたい。そう言いたくなるほど富永の翻訳とオリジナルの詩は同一レベルに置ける。つぎに引くランボーの『饑餓の饗宴』だとさらに、時代を超えて現代にも通用する佳品となっている。

  俺の饑よ、アヌ、アヌ、
   驢馬に乗つて 逃げろ。

 俺に食気が あるとしたら、
 食ひたいものは、土と石。
 ヂヌ、ヂヌ、ヂヌ、ヂヌ、空気を食はう、
 岩を、火を、鉄を。  (『饑餓の饗宴』冒頭二連)

 ほかに、ランボオの訳詩としては『労働者』『古代』『朝』『小説』『錯乱㈠』があると言うが、散逸でもしたのか思潮社版に掲載されておらず、どうなったのかは皆目わからない。残されている「詩帖1」には、ランボーの『酔っぱらった船』の原詩の転記があって、各詩行の音節の区切りを確認するためのアンダーラインが引かれている(企画展リーフ)というから、フランス語のリズムを大事にして訳していたのだろうことが伺える。夭折して未発表詩まで入れても三十七篇しか残せなかった富永の最後の詩が『ランボオへ』というのも暗示的であるがそのことは置く。わたしは少し翻訳のことばかり語りすぎたかもしれない。だがもう少しだけ語りたいのを許して欲しい。それは富永が亡くなる大正十四年春に、ヨーロッパから十数年ぶりに帰国した堀口大学のことであり、訳詩集『月下の一群』のことだ。これを待つようにして、日本の近代詩は言文一致体の口語自由詩のエクリチュールを完成した。フランスの詩人六十六人の作品三四〇篇というのもすごいが、ボードレール、ヴェルレーヌ、マラルメ、ヴァレリイ、クローデルの象徴詩の正統から、アポリネール、コクトー、ラディゲの前衛詩人、スーポー、マックス、ジャコブといったシュールリアリズムの詩人まで広範囲にカバーしており、その影響力は戦後詩人たちにまで及んでいると言われている。
さて、話をもどそう。富永の詩には、優れた散文詩のほかに韻文の『COLLOQUE MOQUEUR』『熱情的なフーガ』『焦燥』『ランボウへ』といった佳品もあるが、どうしてもつぎの散文詩『群集』を触れないわけにはいかない。

  私には群集が絶対に必要であつた。徐々に来る
 私の肉体の破壊を賭けても、必要以上の群集を喚
 び起すことが必要であつた。さういふ日々の禁厭
 が私の上に立てる音は不吉であつた。
  私は幾日も悲しい夢を見つゞけながら街を歩い
 た。濃い群集は常に私の頭の上で蠢めいてゐた。
 時々、飾窓の中にある駝鳥の羽根附のボンネツト
 や、洋服屋の店先にせり出してゐる、髪の毛や睫
 毛を植ゑられた蝋人形や、人間の手で造られては
 ならないほど滑らかに磨かれた象牙細工や、紅く
 彩られた巨大な豚の丸焼きなどが無作法に私を呼
 び覚ました。私は目醒め、それから、また無抵抗
 に濃緑色の夢の中に墜ちて行つた。
               (『群集』一連目より)
 
 大正時代末の富永以前に、これほどアクチュアルな詩を書いた詩人が日本にいただろうか。同時代を見回したとき、北原白秋をステップにして萩原朔太郎が大正六年に『月に吠える』を刊行、一時は詩のエクリチュールにおける「言語革命」家でさえあったが、やがて彼は文語定型詩へと退却していった。中也の場合はどうだろうか、『秋の悲歎』に影響を受けたと言われる韻文詩の『秋の愁嘆』があるのでつぎに引いてみよう。

 あゝ、秋が来た
 眼に琺瑯の涙沁む。
 あゝ、秋が来た
 胸に舞踏の終らぬうちに
 もうまた秋が、おぢやつたおぢやつた。
 野辺を 野辺を 畑を 町を
 人達を蹂躙に秋がおぢやつた。
    (中略)
 へちまのやうにかすかすの
 悪魔の伯父さん、おぢやつたおぢやつた。

 この「おぢやつたおぢやつた」の俗謡的な表現は富永には決してなかったものであり、「実生活への愛があつてもよかつた」と中也が評したように、富永の表現には実生活と乖離した面があった。それは富永がストイックで倫理的であることによって垂直性を獲得したのに比して、中也の詩は言ってみれば水平性の詩であったと言えるのかもしれず、北川が指摘するように「常人より低い眼の位置」にあって、それゆえにアクチュアリティを獲得できているとするなら、富永にはそれはすっぽりと抜け落ちているところだと言えるのかもしれない。また、近代詩のもう一方の雄である宮沢賢治の『春と修羅』を「近頃発見した面白い詩をお目にかける」、「大へん立派な詩集だ」と正岡宛の手紙に書いて詩篇『蠕虫舞手』を書き写して同封している。

  (えゝ 水ゾルですよ
   おぼろな寒天の液ですよ)
 日は黄金の薔薇
 赤いちひさな蠕虫が
 水とひかりをからだにまとひ
 一人でをどりをやつてゐる
  (えゝ 8γℓ6α
   ことにもアラベスクの飾り文字)  (冒頭部)

 もし富永を最後のサンボリストであるとするなら、『春と修羅』集中のより象徴的である詩に目がいって、賢治の詩の良質な『永訣の朝』『松の針』『無声慟哭』『青森挽歌』といったリリック、『原体剣舞連』のリズム感、『小岩井牧場』の物語性などに感興が湧かなかったことも、時代に殉死する文学者の臨界点を示す側面を露呈していると指摘できるのかもしれない。大正十年二十歳のとき、富永は正岡宛の手紙にパルナシアンへの共感を語っている。この時期はボードレールの翻訳を始めた頃に相当し、ボードレリアンでボヘミアン、さらにパルナシアン的ですらあったことは、富永という個体の内部で矛盾しなかっただろうか。それとも富永の嗜好(=志向)を示し、現地点から踏み出す方位を指していたと解釈すべきなのだろうか。朔太郎の「竹」、賢治の「アラベスク」、フランス近代詩人らの訳語の語彙の、ディテールにそのことが胚胎している気がする。詩人にとって読者としてのエクリチュールは、過去の轍から恣意的に遁走し逸脱して未知のフィールドを侵犯することであるだろう。
 富永の問題を、現在われわれが置かれているクライシス的状況とのアナロジーとして見るとき、垂直性で思い浮かべる戦後詩人のひとりとして田村隆一をあげることができるだろう。『秋』『腐刻画』『皇帝』などの散文詩、韻文体ではあっても散文性を抱え込んだ詩を書き、富永から遅れること二十二年の一九二三年(大正十二年)に生まれている。たとえば、つぎのような詩がある。

 繃帯をして雨は曲っていった 不眠の都会をめぐ
 って その秋 僕は小さな音楽会へ出かけて行っ
 た 乾いたドアにとざされた演奏室 固い椅子に
 腰かける冷酷なピアニスト そこでは眠りから拒
 絶された黒い夢がだまって諸君に一切の武器を引
 き渡す 武装がゆるされた 人よ 愛せ 強く生
 を愛せ       (『秋』の一連目より) 

 富永の詩と田村の詩の明らかな違いは、傷を負った陰鬱な対自意識の性急さと対他的歴史意識だろう。年を経た後代の目からみると富永は「近代の自我中心主義」(渋沢孝輔)という陥穽に落ち込んだ詩人と見えるかもしれない。明治の家父長制度のリゴリズムからの遁走は果たしても、ファナティックな近代とその規範からは完全に自由であったはずがなく、深層心理的に時代へのレジスタンス意識は少なからず持ちあわせていたに違いないのだが、そのことをさらに言えば、富永、中也、賢治に共通の特性として、社会との距離を置いたクレオール性が彼らの作品世界に、同時代にはない梁山泊のような独自性を齎したのだとは言えないだろうか。
 詩誌「荒地」は、鮎川信夫、北村太郎(富永と同じ東京外語仏語部)、中桐雅夫などとともにイギリスの詩人T・S・エリオットの長編詩と同タイトルの詩を出発点としており、田村の詩も翻訳調に読めてしまうが、そのことは、フランス象徴詩の爛熟から退歩した日本の「情調派」から一線を画したいと願った富永との関係性とパラレルで、近代・現代詩の歴史を考えた時に欠かすことのできないひとつの系譜として、英米文学の西脇順三郎を経由し、クレオール的(野村喜和夫)な金子光晴を横目に見て、仏文の渋沢孝輔、安藤元雄、入沢康夫さらに次世代の朝吹亮二、野村とつづく外来詩の連嶺が背後に見えてはこないだろうか。実際、近代日本にとって時代の節目で停滞を乗り越え、遭遇した文化の思潮と軌を一にした欧米との精神性の往復運動が将来においても継続されることが予想される。だが事はそう容易くはないだろう。帝国主義的植民地政策から始まったグローバル化は世界同時発生的に均質化へと向かって突き進み、文化の衝撃力は漸減され、無効という零のクライシスを抱え込んで現在が危篤の態であることに何ら変わりないからだ。
 このごろ『現代文学理論』(新曜社)という著作を読んでいるのだが、そこで丸山圭三郎はソシュールの記号論を大胆に敷衍した「言葉が世界を文節し、事物を生じさせる」というテーゼを唱え、ヤーコブソンは文学の文学性を探求すべきであると主張している(構造主義)が、どこかサンボリズムにも似て、わたしには富永の詩を理論づけているディスクールであるかと読めてしまった。そのことはまた、富永の詩が「象徴詩の帰結点を示し、存在の危機感を表明した」(『詩の現在』)ものであり、サンボリズム(有明・泣菫・露風)やシュールリアリズム(北園克衛・瀧口修造)も含めて総称するところのモダニズムの系譜の始まりに立っている詩人だとする佐々木幹郎の言質にも符合して、『詩の現在』のあとがきで城戸朱理が書きつけている、つぎのような言葉とともにわたしの胸内に痛烈に響いた。それは、「今日の状況は、やはり後退と言うしかないだろう。(中略)メタファーを主要な方法としてきた「戦後詩」が、その有効性を終えたあと、語るべき主題を失って個人的な感懐を語る抒情詩に解体され(中略)世界そのもの、主体そのもの、言葉そのもの、そして、詩そのものは、決して問われることはない」と。このような時代状況にエクリチュールの表現の後退であるとするディスクールを受け入れたなら、弁証法的に富永の詩も近代詩のメタファーのカテゴリー内で臨界点を示すだろう。しかしここで思い直して未来に向かって接木しようと翻って遡及し、モダニズムの劈頭に何度でも立ち戻って戦後詩を経てきた現代詩と照応するリンクを行なうとき、それは必ずや真の問いとなって、衰弱し瀕死の態にあるものを甦生させる重要な作業となるだろう。


散文(批評随筆小説等) 【批評祭参加作品】近代詩へのリンク ー富永太郎試論ー Copyright 石川敬大 2011-03-05 09:44:16
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第5回批評祭参加作品