【批評祭参加作品】書くということについて
kaz.





書くということはどういうことか。書くことは何を意味し、何を物語るのか。未だかつてこの問いに満足のいく答えなど出されたことはあったろうか。否。しかし私がこうした問いに立ち向かうことに何らかの意味があろうと想像したりすることに、何ら抵抗がないのも事実である。

テクストという言葉が存在するように、いわゆる「書かれたもの」に対する考察は、かつてからよくなされていた。何が書いてあるのかを読み解く。それは最初、作者が何を書いたのか言い当てる、そんなところから始まったように思う。けれども、何が書いてあるのかなんて、本人さえも分からない、例えば言語や歴史の影響は排除できない、ということになってきた。やがて、その答えというやつは、読み手の解釈次第、ということに変わっていくのだった。

書かれたものに対する解釈が、書くことに対する解釈とイコールでないのは、論理的な必然に近い。つまり「読む」か「書く」かというところの差異である。注意したいのは、単純な受動・能動の関係ではないということである。前者が指定するのは、読む主体であると同時に、読み取られる実体である。後者が指定するのは、もはや何物でもない。書くということについて回るのは、書かれるための空白である。こうした関係は、地平線を望遠鏡で眺めることを想像してもらうと分かりやすい。「読む」はまさに望遠鏡であり、見る主体と見られる景色をつなぐ円筒の掛橋である。一方「書く」はその地平に向かう、果てなき冒険そのものである。つまり地図の空白部分を埋めることなのだ。

読むことが二つの対象を指定するのに対して、書くことが指定するのは空白である。書き手と読み手の関係も、こうした多角性/直線性を負って成り立っているようだ。読み手は望遠鏡でどんな方角を眺めるのも自由なのに対し、書くことは一つの方角に向かっていくことしかできない。行き詰まりに達することもある。書き手はそれを受け入れるしかない。

こう考えると、一読したときの印象と、再読したときのそれとが一致しない理由も、自ずから明らかにされる。遠くから見る富士山は美しい。けれども近付けばその根本の樹海が見え、さらに近付けばゴミだらけの岩肌も観察できる。場所を変えれば、同じ対象も同じようには見えない。果たして何が原因なのかは知れないが、私たちは無意識に冒険するのだ。こうした事例は、読み手が完全な読み手では要られないことを示すのである。読み手とは潜在的な書き手である。

こうした考え方は、読むことと書くことの区別を曖昧にしてしまうだろう。実を言えば、こうした区別をはっきり設けないのは、案外危険な気もするのである。ただ、もう少しこの比喩に踏み止まってみよう。そして辺りを見渡してみよう。広がっている草原、所々に散らばる白亜の岩石、言語活動という自然の造形を、よく見てみよう。何かが見えてこないだろうか。何かが。

直面するのはその広さだろう。言語活動のフィールドはとてつもなく広く、しかもその言葉の一つ一つが構築する奥行きまで考慮すれば、四次元空間さえ構築できる気さえしてくる。少し行けば、地平の断絶、すなわち言語的差異さえ見えてくる。断崖絶壁のあちらにはカミュやランボーがおり、こちらには三島由紀夫や川端康成がいる、そんなことさえ感じられるようになる。私は石灰岩に腰を下ろし、手元の『眼球譚』(バタイユ)を広げる。そして訳文の所々に欠けている地名、すなわち「***」の箇所が、どこにあるのだろうかと想像する――少なくとも向こうの地にあるのだろうと期待しながら。

こうした想像には何か得られるものがないだろうか。それは異国への憧れとも違う、どこか彼方への想いであろう。こうした望郷の念にも似た感情は何に起因するのであろうか。私たちは、それを単純な異国情緒として処理できない。少なくともそこに現されている限りのイマージュでしかない。とすればそれは「異国」ではない。単なる別世界に過ぎないのである。しかも困ったことに、多くはそれを異国じみたものと感じてしまうのだ。

これは、単なる言語的差異の問題ではない。むしろ、こうした事態を言語的なレベルに還元してしまうことは、かえって本質を見失う原因となる。言語という地平を想定しなくとも、何らかの世界が提出された瞬間に、私たちはそこに投げ込まれる運命にある。そうした運命にいくらかは抗うこともできよう、しかし一切を拒絶することはできない。ここで世界を拒絶できない理由として立ち上がってくるものが、言葉(※)である。世界をどれほど拒絶しようとも、言葉から絶えず流れ込んでくる、イマージュの防波堤は築きようがない。それというのも、私たちは生まれてから死ぬまでそうやって世界を与えられ続けているからだ。例えどれほど吐き出しても、生まれた瞬間から食べ続けた言葉をすべて吐き出してしまうことは、もうできないのだ。

できないからこそ、私たちのもつ異界への奇妙な憧れが得られる。辞書をめくれば、言葉から言葉へ、終わりない語りが続いているのがわかる。それと同じく、終わりのない言語活動の呪いが、私たちを想像へと駆り立てるのだ。それは、流れ込んでくるものを止めようとせず、存分に吸収した成果とも言えよう。世界とはこうした過程で生まれてくる想像の産物である。そして想像の産物でしか有り得ない。

もし言語という名の受け皿がなかったら、私は言葉をどこに吐き出したろう。私たちは言語活動の皿の上に言葉を吐く。そして皿に載せられてやってくるものを食べている。皿の表面に映る向こうの世界、それがイマージュの領域と考えて差し支えない。そしてこの運動は、言葉から言葉をつなぐ空気のように、止まることがない。

けれども吐き出す行為にもまた飽きてくる。私は自分の言葉が虚しく空へ消えていくのを感じる、光さえ残さずに消えていくのを見るとき、猛烈な喉の渇きと共にそれが身体の水分を消費するだけの無益な行為だったと気付くのだ。そしてもう少し言葉を追い掛けてみたくなる。少なくとも私は、そうやって書くことを初めている。

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文学極道では、世界という言葉が好んで使われていた時期があった。コラムを読めばそうしたことは明らかである。私の解釈では、この世界とはハイデガーの「世界」の意味である。それは、ダーザイン氏がハイデガーの影響を受けたと発言していることからも容易に推測でき、「実存」大賞や「人間を書け」という主張からも、実存主義や現象学の匂いを嗅ぎ付けることができる。しかし、これに関しては深追いしない。ハイデガーは存在を出発点とした。しかし、私が出発したのは、「書く」と「読む」の地平である。

世界というものを語ろうとする上で、出発点を見逃すことはできない。私がこれから書く世界は、単なるイマージュの問題である。今回はそこにあるイマージュをいくつかのものに区分してみようと思う。それに答えるために、私は一つのアンチノミーを持ち出してみよう。あなたに問う。世界の始まりは存在するか?


・世界の始まりは存在する。仮に世界の始まりが存在しなかったと仮定しよう。そうすると、始まりが規定されないのだから、過去から現在に至るまでに無限の時間が流れているということになる。無限の時間は分割できず、際限ない取り尽くしによって計測できるものである。そうなると過去から遡ってどれほど時間を取り尽くしても現在には到達できなくなる。このことは現在があることに矛盾し、従って世界に始まりはある。

・世界に始まりはない。世界に始まりがあると仮定しよう。そうするとその始まりの前には、世界ではない何かがある。世界は世界すべてだから、そこからあらゆるものを消し去ってしまえば、何もない状態、つまり虚無があったことになる。虚無はいつまでも経っても虚無のままである。虚無のままであるなら、現在に至っても何もなかったことになる。しかしこれは現在があることに矛盾する。故に世界の始まりはない。


私は理性の限界云々のことを言いたいのではない。言葉の意味だけでこの証明を解釈し、一切のイマージュなくして扱えるだろうか、ということが問題なのである。私は、意識せずとも、例え文脈に書いてはいなくとも、空間化された時間の「軸」を想像したり、あるいは、何もないこと、つまり「虚無」を想像することができる。こうしたことが可能なのは何故か。こうした事例を単に「イメージ」と呼んでもよいのだろうか。あなたはすぐには否定できない。これはイメージではない、思考を支えるための想像力にすぎない、と発話するとき、無意識にあなたは自分の中のイメージの意味と、ここで問われている意味とを対立させているのだ。イメージという語があまりに蔓延り過ぎているために、こうした齟齬が生まれるのである。今までイメージと言い表すことで処理してきたものを、今やイメージではない何かに転換する時期に差し掛かっているのだ。

辞書的には、イメージとは想像や思考によって私の中に描き出されるものであった。ところで、私たち読み手が一般にイメージという言葉を使うとき、そこには想像や思考の介在に終始しない何か特別なものがありはしなかっただろうか。ここで読み手という語を欠くことができないので注意して欲しい。例えば文極でイメージの連鎖について私たちが語ろうとするとき、想像や思考を越えた領域、つまり書かれたものとしてのイメージを想定しなかったことが一度でもあろうか。つまり私たちがイメージと呼ぶものは、実は純粋に想像や思考を起点とするものであるとは言い切れないのである。文極において用いられる語としての「イメージ」では、あまりに漠然としており、その対象を明瞭にするどころかかえって分かりにくくしているように感じられる。書かれる対象としてのそのイメージは、言わばそのストーリーの旋律が奏でる心像であり、それは本来イメージという語が持っていた広範囲の意味を喪失しているのだ。しかし私はそうした意味的差異に留まり続けることなく、これに描写としての性格を与えた上でイマージュへと帰してしまうことにしようと思う。要するにこうした意味でのイメージとは描写されるものとしてのイマージュであり、単純な想像や思考によって扱われるものではないのである。

こうした語の意味に従うなら、あくまでこの二律背反の例に沿って考えられた世界は、単純にイメージとイコールではない。むしろ、このイメージを背負わされたとしても壊れようもない何か根源的なものとして与えられているのである。逆に世界なくしてここで言われるイメージは成立しない。このように言うと、あなたの心には「世界」という名の土台と、その上に張り付いた「イメージ」という名の層が見えてくるだろう。これこそが私がイマージュ理解と呼ぶものであり、イメージという語のあまりの広範囲さ故理解されなかったものであるのだが、私のいうイマージュは、こうした理解の構造そのものとも密接に関わり合い、切り離すことのできないものとして存在しているのである。これらは「概念としてのイマージュ」とも呼ぶことができるだろう。イメージとは、本来こうしたものをも言い表せる言葉ではなかったろうか。しかし先にあなたは、アンチノミーにおける無限や虚無の抽象的心像を、描写としてのイマージュと区別していたではないか。これはイメージという語の濫用が招いた弊害なのである。

私はこうしたことにこだわらない。文学極道での「イメージ」の意味においては、完全にイマージュ区分までも考慮したとは言い難い、ということが伝わればよい。断っておくと、私はあなたに無理にイマージュという語を使うことを強制しない。「イメージの連鎖」などの語を批判する気は全くない。けれども、私はこの「イメージ」が意味する領域について緻密な分析を試みる必要がある。それがイマージュ分析であり、分類の名称としてのイマージュを与えるに過ぎないのだが、そうしなければならない理由も提示する必要があろう。

イメージのない世界を想像してみよ。私たちはまず自分自身の想像力から物体を排除する。その上で残ったものからあらゆる色彩を排除する。文字言語の配列、有機体と無機体の輪郭線を完全に排除する。しかしどれほどイメージを消し去ろうと努力しても、そこに残るのは、一つの無限な広がりをもつ空白なのだ。空白それ自体は、色彩を持った一つのイメージである。私は最大限の努力を払い、このイメージの外皮を少しずつ剥いでみる。けれども空白そのものを抹消しようとしても、空白がそこから立ち退くことはなく、空白を消し去るためにまた別のイメージを導入したりするしかないだろう。こうして、私たちはイメージから逃れることはできない。人によっては、あるのはぼんやりとした暗闇かもしれない。闇と光のどちらが空白かというのは、この際考えないことにしよう。私は単に、黒や白を含めた色を考えずには、何もない(空白の)世界について考えることはできない、と言いたいのである。

空白の世界にあるイメージは抹消できない。しかしイマージュとして見たなら、イメージ一般との違いは明確であろう。先に扱ったのは心像としてのイマージュであり、すべてを消し去って残った無限の空白さえ包括する。また、イマージュは前述のアンチノミーによって指示された「無限」や「虚無」の概念を扱うことを可能にする。要するに、イマージュとは単純なイメージに還元され得ないものとして結実する。例えば文極において「イメージの連鎖」と呼ばれるものが指定するのは、描写としてのイマージュに他ならない。

こうしたことから明らかなように、世界とはすなわちイマージュの領域に過ぎない。そうしたものを一切排除して世界を考えることなどできない。そしてここまで読めば、書くことが指定する空白の正体もご理解頂けるはずだ。空白とはイマージュであり、それはすべてのイメージの根底にあるものなのだ。そして、世界はそれを漠然と限定するための表現に相当する。また、私が見てきた、書くこと/読むことの対立が曖昧であることもはっきりする。読むことが書くことにもなるのは、読むことがイマージュを操作することなしに遂行されないことを意味する。かくして、読むことと書くことの対立は揺らぎ出すのであった。

※私はイマージュという語を好んで用いる。これはベルクソンの用法にならったものではない。従って単にイメージと言い換えても差し支えない。しかしイメージという語によって単純には説明され得ないものが存在することを、私は否定しない。文学極道をはじめとする随所のサイトにおいて、イメージという語が氾濫している。何故「イメージ」なのか? 何が「イメージ」なのか? 私はそう思わずにはいられない。こうしたイメージ偏重の風潮には、何かうんざりさせられるものがある。けれども自分のこうした感情を理解してくれる人も少ないだろう。むしろ、こうした小さな言葉の意味にとらわれて自分を縛るような事態は避けたい。それで私は考えた。イメージという語が嫌いなら、使わなければよいのだ。それはしばらくの間逃げ場にはなる。もちろん、問題は再び回帰するだろう。そういった意味で、「イメージ」は撲滅できない。根絶できないからこそ、多くの書き手にとって重要なテーマなのだ。
同様のことが、「現代詩的」などの形容詞にも言える。こちらは、その作品が良くないということを主張するのにも用いられ、かえって悪質である。しかも使ってみると意外とかっこよく見えてしまうために、皆がこの形容詞を使う。心当たりがある人は、果たしてそれが本当に現代詩的な詩であったかをよく確かめて欲しい。私は思うのだ。散々ダメだと言われている現代詩手帳が廃刊しないのは、散々ダメだと言っている人たちでさえその言葉を使い、永遠に「現代詩」が死語にならないからである、と。そういうわけで、まだもう少し現代詩は書かれるだろう。だが、言葉の意味を説明できもしない人が、現代詩の亡霊を蘇らせているという可能性については、十分に考慮の余地があるだろう。

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少し復習しよう。読むことは二つの対象を指定するが、書くことは空白を指定する。ここで世界の話に移行して、アンチノミーによって扱った概念や描写、心像としてのイメージを分類し、それらをすべてイマージュに相当するものとした。さらにイメージという語の意味の歪曲についても付け加えておいた。

書くこと一般は、イマージュにおいては捉えにくいように感じられる。書くことは空白を指定する、空白に向かい、それを埋めていく結果として何らかの文字を残す。しかしイマージュとしての空白は、「書く」によって指定するものを文字に限定することがない。何故ならそれは「描く」さえも許容するからである。つまり、WritingとDrawingのための支持面としての空白が、そこには想定されているのである。

書くことが描くこととイコールであるかどうか、実を言えばあまりはっきりしたことは分からない。それはパルマコンとしての言語のように、対立する概念を扱うものではないからである。例えばここでどちらを優位項に据えるとしても、それはすぐに転覆されてしまうだろう。逆にどちらをもまとめてイコールとしてしまうことは、私にとっては都合がいいが、言語表現と絵画表現の対立を好む一部の人々には嫌われる原因となるだろう。なので私はそうした差異にこだわるつもりはない。あくまでその二つが同じ空白のイマージュを指し示すことを提示するのみである。

逆に、空白のイマージュを指し示すことのない『例外』が存在するかどうか、これをもう少し考えてみる必要がある。例えば引用やコラージュはどうだろう。確かに、これらは例外と位置付けることもできよう。与えられたイマージュを切り抜き、貼付ける作業は、一見すると空白の指定とはまた違ったものにも見える。ただし、ここにも貼付ける作業における「貼付け先」というものがあり、それが空白のイマージュとなっていることは疑いようがない。もし疑うなら、それは引用・コラージュを例外と位置付けることになる。ところが、貼付けられずにフワフワと漂っている文字や絵(Picture)は、そもそも空白のイマージュに載っていたものであり、それらを切り出す作業には、一旦はその支持面から解放してさしあげる側面があることを、多くの人が忘れている。つまり、引用やコラージュには、書く・描くことに単純に還元され得ない、二段階の過程があるのだ。

まず私たちは読む・見ることによって、引用・コラージュの対象を取り出す。読むことも見ることも、すべて探すことに相当する。何故探すのか? 引用・コラージュの『対象』であるそれらを切り抜き、解放し、一旦は自分のものとするためである。この瞬間、読むことから切り抜くことへのつながりが透けて見える。今のところは、切り抜くことを解放と位置付けるだけで我慢しよう(読むこと自体を解放と同義のものと位置付けるには早過ぎる)。しかし、後に考察するように、読むこととは引用・コラージュの作業と同じ本質を有し、またそうした意味で書くことに似ているということを示すまでの道のりは、かなり近くなった。

次に引用・コラージュは書くことへ及ぶ。書くことは引用・コラージュを決定的なものとして昇華させるようにも見える。しかし、実は前の「読む」過程において取り出されたときに、これらの決定不可能な運命は始まっているのである。引用・コラージュは、それ自体空白のイマージュなしには成立し得ないように見えて、実は空白のイマージュに定着することを、少なくとも一時的に拒絶するものだ。文字や絵にとって、空白とは一つの束縛に過ぎない。それらにとって空白とは「それなしでは存続しえないもの」である。ところが、引用やコラージュには、こうした境界の措定から身を引いて、言葉をそれ自体として認めようとする性格がある。残念なことに、空白のイマージュから切り離されたものを言い表すのに適当な言葉を私は知らない。本当なら、これが後に出てくるコラージュ(コラージュのイマージュとしての造語)に相当する。それらは空白なしでも生き残り、貼付けのために取り出されることも、取り出されないことも可能である。書くことによって決定されるのは、わずかその程度のことである。

こうしたイマージュにおいては、意味の位置付けとはコラージュに相当する。読むことは対象を取り出す。そして再読するとき、私たちは普通対象の形を変えずにもう一度それを取り出してみせる。けれども以前と明らかに何かが違うように感じてしまう。何故か? そこに意味の違いを考えるとなると、一回目と二回目の意味のイマージュの変質を、外見から直ちに感じなければならないことになる。しかし、だいたいそんなものはじっくり読んで少しずつわかっていくようなもので、明らかな違和感を覚えるようなことはあまりない。とすると、私はこれまで想定していた意味の外皮を、再び貼り直したい衝動に駆られる。このとき私がいう意味は、恐らくは紙面の上のものではない。意味自体を打ち立てる主体の側にあるのである。こうしたものを、もはや意味と呼ぶことはできず、翻訳とか解釈とかそういう言葉を用いて表す必要がある。だがそれは少し行き過ぎな感じもする。そこで私はこの変質するものをコラージュ(コラージュのイマージュ)と呼ぶ。コラージュにおいては言葉はあくまで取り出されたものになる。けれども、コラージュは書くことでもあり、指定する空白のイマージュは私の心である。しかしコラージュは貼付けられたものとしての性格だけを有する訳ではない。言い換えればコラージュは、一つの作品である必要がない。そのため心にコラージュを「置く」形で保持することができる。それらは別の場所へ移すことも、破棄することも可能である。これは、心に「書かれている」とも言えるし、あるいは「読み終えている」とも言える。より分かりやすく言えば、コラージュが意味の位置付けそのものを問うのである。

あなたはコラージュなどしたことがないと言うかもしれない。実を言えば、私もあまりしたことがない。けれどもコラージュのイマージュは誰もが持つことのできるものであり、こうした領域においては、もはやそれがコラージュ的であるというだけで十分なのである。ただし一つ言っておけば、コラージュは、芸術としてもイマージュとしても、読むこと/書くことの二項を縦横無尽に行き来することのできる活動であるが、反面、決定不可能であるという側面を有することに疑いはない。それは言わば自由/制限、解放/束縛の対立関係の淵に立っているために、時としてそのめりはりのなさに読み手を苛立たせるのだ。コラージュの書き手は、そういう決定不可能な地平に身を投げる姿勢を崩さないかのように見える。そのために私には彼らがとてつもなく自由奔放であるかのように感じられる。しかし、実態としては自由であることの束縛、自由という名の刑に処されているといったところか。

こうしてコラージュのイマージュについて語り終えてしまえば、読むことが書くことにほぼ一致することも、容易に理解されるだろう。読むことによって、文という牢獄に囚われた語彙を解放し自分の心に遊ばせるとき、それと意識していなくとも既にコラージュなのである。またコラージュは空白として心を指定するために、それは書くことにも相当する。再読が私たちに違和感を与えてくれるのは、私たちが読むことのうちに用意したコラージュが、意味を問い直すものとしてあるからである。

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空白を単純に指定しない「書くこと」について、コラージュという『例外』を持ち出しつつ、それを今イマージュの範疇に置き直した。ところで、他に見られる例外をも、空白を目指すものとして置いておきたい。

絵のことに触れたとき、私はそれとなく、「描く」ことも空白のイマージュを指定するものだということに触れた。さて、それは何故か。空白とはそもそも、イマージュの全体から極限まで像や色彩、輪郭を排除したとき、その果てに得られるものであった。その作業を逆再生してみよう。すると、私の中にあった空白へ、イメージと私たちかつて呼んでいたもの、すなわち分類されていなかった何らかのイマージュを、呼び込んでくることになる。そのとき、あなたは一つの印象を再現するかもしれないし、個物のデッサンから始まるかもしれない。とにかくそのようにして回帰していく映像を、私たちはイメージとかつて呼んでいたが、実はイメージ自体の意味にはそうしたものに留まらない要素があるのに、無意識に否定していたのだ。そこで私は、あらゆる像をイマージュの範疇へ置き直すことから始め、読むことと書くことはそうしたイマージュ作用のうちにあるのだと主張した。

最終的に完成されたイマージュが何であれ、そうした心像の範疇としてイマージュを置き続けることは、実はイマージュの本質から離れることになる。私がイマージュを世界の説明から出発したことに注意して欲しい。イマージュと捉えることのできるすべては心像に留まらない。あなたはイマージュの色や形を捉えることを、世界から知ったに過ぎないのだから、その根源は物質的世界にある。しかし、その物質さえ、あくまで私の目を通して見たものでしかなく、あらゆる光の屈折、不可視の光線の存在は無視されている。このような知覚によって得られるものは、イマージュとしてである。イマージュが心像の枠を離れようとするとき、イマージュはその重さに耐え切れず、破裂するかもしれない。けれども、その名自体は、私たちがイメージと呼ぶものにならって、付けられたに等しい。私たちが知覚するものはイマージュであり、既に物質の性格を失っている。しかし、書くこと、あるいは描くことは、空白のイマージュから、私の内のイマージュを物質として展開することを可能にする。私たちが作品から得るものはイマージュに他ならない、しかしそれらを描く筆の尖端は、極めて直接的な形で、物質を空白のイマージュへと導入するのだ。繰り返す、イマージュは既に物質としての性格を失っている。けれども書くこと、描くことは、先鋭化させた物質を空白のイマージュに導入する。ここでその導入者の正体、イマージュ導入の媒体とは、まさに物質の配置、これである。

このことにより、書くことと描くことを、物質の配置を試みるものだと誤解してはならない。物質の配置は媒体に過ぎない。物質はイマージュではなく、書くことと描くことは、同様に空白のイマージュを指定はするが、物質を先鋭化させることはない。鉛筆や、絵筆を手にとるなり、タイプライターを使うなりして、私たちは物質の動的尖端を、空白のイマージュに向けている。この空白は、白紙だとしても、内的な空白だとしても、イマージュ性質としては一致をみている。従って先鋭化はイマージュ指定の一つの道具、あるいは手段に過ぎない。そうでなければ、私が絵を描く指先のイマージュなくして、心像を空白のイマージュに描くことができる理由がわからない。書くこと、描くことにおいて、物質は一つの手段であり、空白のイマージュを指定するということ自体でその一致を見ているため、両者をはっきりと区別する必要はないのだ。行為としての書くこと、描くことを完全にイマージュ想像と区別してしまうなら、物質がなくとも私たちは想像することが可能だということを忘れている。要するに、書くこと・描くことを物質としての作品の内に置き続けておくこと自体が、一つの束縛でしかない。

カミングスの詩のように、文字の配置の巧さによって、一つ造形を生み出す形態もあるが、それは空白のイマージュの上においてのみ可能な自由である。それらを翻訳することが難しいのは、その自由さ故である。それらは単語のきちんとした配列を越えたところにあり、Writing=Drawingとしての文字言語を屹立させているのだ。書くことと描くことはこのようにして一致する場合があり、それらを区別したがる人達は、そもそも書くこと・描くことが空白のイマージュの想定なしには成立し得ないという事実を忘れている。しかしこれについては深入りせずとも、作品を観察する側に立ったときに、文字とみるか絵とみるかの二択が許されている場合があるのと同様であると言っておけばよいだろう。

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この辺りから、詩とは何であるかという問いを、持ち出してもいいだろう。私たちがこうした問いを忘れてしまったのは、その問いが常に潜在的な不可能に結び付いていることを疑うからである。つまり存在問題同様、解き放つことのできないヴェールに覆われており、それに触れようとすることは凄まじい壁に直面することなのだと、どこかで気付いている。もっと極端なものは、問いそのものが破綻しているという主張である。こちらはあたかも答えないことが高尚であるかのような振りをして、思考停止する主体を秘匿しているに過ぎない。実を言えば、この主張はある意味で私の考えに最も近い。しかし、ある意味では、私から最も遠いものであるのだ。彼らは詩とは何か、という問いが破綻してはいるとはするが、その問いにおける「途方もない感じ」を認めることに、少しの疑いもない。それらが途方もなく感じられる理由は二つ。一、「書くことは何か」という問いとの区別を、少しも考えようとしないこと。書くことそれ自体で考えれば、空白のイマージュの指定は自ずから理解される。空白のイマージュがあればどこでも書き込むことができるにもかかわらず、あなたはそれを現実の白紙と区別してしまう。そのために、詩をイマージュ導入の一手段として見ることができず、詩という一視点から見る偏向に陥ってしまう。言わば、「詩」で考えてしまうのだ。私たちは自分にとっての詩の位置付けを、現存する言葉の区別から考えようとするが、それは言葉のもつ物質性を認めようとするだけであり、その根底にある空白のイマージュを捉えることはない。そのために、詩以外のジャンルとの差異ばかりが目についてしまい、詩を劣ったものと見做したりする。二、「イメージ」という語の汎用性の高さ故に、私たちは純粋な、真っ白な心像に直面しても、それを「イメージ」として捉えることをしていない。これが書くことを書くこととして捉えることのできない問題の発端である。私たちは書くことによって空白のイマージュに直面しているにもかかわらず、書くことそれ自体の根底のイマージュ、すなわち空白のイマージュを、私たちの中に眠らせたままにしている。それゆえ、「イメージ」の語のもつ意味が、空白や無限、虚無の印象を含むものだとしても、彼らはそれを認めようとはしない。単に空白をイメージしろと言われれば、それは可能である。にもかかわらず、イメージが足りないという発言に対して、どんな空白や虚無もイメージであるという反論が通らないのは、「イメージ」の意味するものに含まれているものを、相手が誤解しているからである。これゆえ私はイマージュと呼ぶ。以上の二点より、「途方もなさ」は、詩を書くことの一つとして見ず、空白のイマージュとの関係の中に置き続けなかったことに起因するのだ。
このようにして想定された空白のイマージュは、書くこと・描くことの対象となる。そしてそれらは行為として発現するときに物質を先鋭化させて用いる。書くことは、空白のイマージュに、物質の動的尖端が形作る配列によってイマージュを導入する。詩や小説などの文学、文芸の名を冠するものは、そうしたイマージュ導入の通俗的な名称に過ぎないのである。

従って、詩や小説、それらを概括して見たとしても、何ら問題はない。しかしあなたは言うだろう、その結論は詩をもはや説明するものではない。先に書くことから出発したからそうなったのであり、詩を出発点としてはいない、と。実は全くもってこれは誤りではない。詩から出発しようとする者にとって、書くことの位置付けは詩という点から立ち上がるものであり、それゆえ詩とは何か、その説明を求めるのである。従って詩から出発したとして、同じ結論に行き着くとは、私も思えないのである。ではどうすればよいのか。まず、詩とは何か、という独立した問いを考えよう。書くこととは別にしてそれを考えたあなたは、この問いから出発していることを否定しない。次に、書くことと独立しているのだから、空白のイマージュの想定なしに詩を考えようとしているに等しい。最後に、そうした詩について、あなたは書くなり、想像するなりしているが、未だ答えは導き出せていないと思っている。作品なり、心像としてのイマージュなり、生み出された個々の存在への問いは、あなたが自ずからイマージュを導き与えているにもかかわらず。つまり、詩とは何か――これを単独で問うことは、単純な詩の存在とは別のものに対しての問いである。すなわち、それは空白のイマージュなしに持続する、一つの詩である。とすると、詩の存在の意味が、あなたの捉えられる範疇にはないということが、理解されるだろう。
一方で、あなたは明らかに、詩作品として、あるいは心像としての詩のイマージュを、有している。前者は、詩作者そのものの立場であり、後者は想像力からそれを読む一般人としてよい。それを問うということは、既にあるものに対して問うことになる。既にあるものに対して問うということは、既にそこにあるものを、再解釈しようとすることも含む。それゆえ、あなたは詩の存在の原因分析を、自分に求めることになる。そして主体が働き掛けた結果としての詩を、目の当たりにすることになる。
この二つの不一致――詩の存在の遠さ、詩の存在の近さ――の間にはとてつもない隔たりが感じられる。私たちはそれをついさっき手放し、一方では持っているとした。この二つの差異を埋めるものはないようにさえ思われる。というのは、両者の違いが、詩の意味の位置付けを流動的なものとみるか、固定的なものとみるかのどちらかである、ということによる。前者の詩は私の手の中になく、後者の詩は私の手元にある。詩とは何か、この問いは二つの詩の隔たりを埋めることになるかもしれない。それが途方もなく、終わりがないものであるとすれば、それは問い続けなければならない。どこまで問い続けるのか。過去から未来に渡ってずっとである。さて、前者と後者の違いを、時間軸上に定着させてみよう。前者は「先」となるもの、未来、目標のような、やがて到達する地点として解答が与えられている。後者は「後」、つまり過去を振り返ったときの詩の問いである。そう考えると、前者の遠さも、後者の近さも理解される。では、この中間点、すなわち現在の詩とは何か。これこそ「今まさに答えているもの」としての詩である。未来にあなたが書く詩はこれからの答えとして提示され、過去に生まれた詩は過去に生まれた答えとなる。以上のことから、詩を書くことによって、あなたは詩とは何かという問いに答えているという暫定的な帰結が生ずる。詩とは何かという問いに詩でもって答えているのである。実を言えば、こうしたことは、小説、文学、絵画、芸術それ自体についても同様である。つまり作品の名を冠するものすべてにおいて言える。簡単に言ってしまえば、作品は、それ自体それを巡る問いの、ひとつの答えである。

こうしたことは、帰納的な推測によっても導かれうる。数多くの作品の中から、詩とはこういうものだ、という答えを導いたとする。その場合、それにはあなたの詩がその答えの範疇にあるかないかという問題を含んでいる。それで「こんなのは詩ではない」と言ったとして、それで万人がそのようになるかという確証が得られる訳ではない。同様に、あなたは自分の詩を、詩とは何かという問いの答えとして見られる可能性を否定できない。
それでも、あなたは反対するかもしれない。あなたは言う。自分の詩は、詩とは何かと答えるための詩ではない、と。それはつまり、あなたがこうしようとしていたという「意図」の不在による主張である。しかし意図の不在は、極めて的外れな返答である。何故なら、意図それ自体の成立は、何かを目的とすることに起因するのであり、その「目的」それ自体はあなたの手の届くところにあるからである。この場合「詩とは何か」、という問いは、「目的の遂行のために何故詩(作品)という形態をとるのか」と言い換えられる。目的は自分にとって近い。しかし、詩は途方もない。従ってその遂行とは、近くにあるものを遠くに投げるようなところがある。何故詩という彼方に投げるのか――という問いを通り越して、投げた結果としてそれは返ってくる。強く投げれば、投げるほど強く返ってくる。返ってくるそれとは作品である。「詩とは何かという問いの答えではない」という主張は、結局詩によって何かをしたいという目的の結果として返ってくるものを無視していたいだけである。自分に対する跳ね返りを認めようとしないこと、つまり否定でしかないのだ。
詩に投げた結果として返ってくるものを、詩を巡る問いの答えとしないならば、そこには一つの逃げがある。それは詩作者たることの責任からの逃避であり、自分は投げていない、と主張するのと何の変わりもない。詩に先立つ責任を認めることで、初めてそれは詩としての存在を獲得することができる。決して、詩によってあらゆる社会問題を題材にしようというようなことではない。それが詩であることの倫理的な責任、一つの詩の存在としての重みがそこにあるのである。

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文学極道が存在・人間存在を強調するのも、これ同様に存在が重要であるからだと私は考えている。私がダーザイン氏から学んだことの中で一番大きなものは、そうした存在に対する姿勢だった。実を言えば、詩壇が今どうなっているのかということや、文学というものが何なのかさえ、文学極道を知った当時の私は考えたこともなかった。私はハイデガーの名前さえ知らなかったのだ。詩なんてのは、偉そうなじっちゃんが、適当に言葉を弄んでいるだけだ、と思っていた。けれども、彼が散々テクニカルタームを振り回して言いたかったことは、きっとこういうことなのだろう。「詩とは何か、という問いでは、もはや答えられない。書くこととは何か、書くことで答えろ」――こんなのは、私の想像に過ぎない。だいたいダーザイン氏の言説を細かく分析した訳ではないのだから、彼を当惑させるだけかもしれない。けれども、彼らが一様に現状の詩壇・詩に不満をもっているのは明らかで、それに対しての「現存在」なのだから、私はそれを直接受け止めるしかない。存在とは何か、あなたは存在することによってその問いに答えているのだというのが、私の答えである(もちろん、こうした考えは、先人によって既に開拓されているだろう)。
こうした受け止め方からは、倫理的な責任を感じざるをえない。私という存在には、存在することの答えとして与えられている、一つの重みがある。けれども、それを私が選択したのは、存在への問いが、書くことへの問いと似ているからだった。書くことが空白を指定する理由はどうしてか。空白に置かれることによって、言葉が存在しようとするのはどうしてか。言葉を存在させているのは誰か――こういう点から見ることで、彼らが存在の問題と文学の問題を結び付けた理由が、なんとなく分かるようになってきた。だから文学極道の存在はこのエッセイの製作にとてつもない寄与をもたらしている。
もちろん文学極道自体のそうした理念に問題がなかったわけではないだろう。ダーザイン氏が代表を降りると聞いたときから、既に存在論そのものに限界があるという気はしていた。その文学極道の理念が破綻したと感じるようになってしまった。私は文学極道の過去ログをできるだけ漁って考えた。やがて、それはポーズと内実とのギャップに苦しむ詩サイトとして、私の文学史の内に刻まれることとなった。文学極道の限界は、既に文学極道に留まる問題ではなく、文学そのものの問題であることが感じ取られた。彼らはそれに答えようとするではなく、文学極道そのものを一つの答えとしたために、それが抱える大きな問題をもまとめて受け入れなければならなかったのだ。
今も、私にはこれらの問いが残っている。けれども、文学極道が存在を標榜としながら、それについぞ納得のいく形で答えようとしなかったのは、実は彼らにとっても難しい問題だったからに違いない。


散文(批評随筆小説等) 【批評祭参加作品】書くということについて Copyright kaz. 2011-03-04 08:24:59
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第5回批評祭参加作品