永久ギターと星の猫
kawa

 仕事が長びいて、いつもより幾本か遅れたバスで帰った。停留所に降り立ち、息をつく。
 星の綺麗な夜だった。
 家までは、徒歩で小一時間かかる。歯が抜けそうに田舎なのだ。歩きながら、見上げた樹々の狭間に、おおくま座がすっきりと見えた。七つの星の、下から二つ目は二重星だ。四等星のアルコルと、二等星のミザルが、ほとんど重なっている。見かけるたび、眼を細めるのだけど、双眼鏡なしに見分けたことはない。過去の光。
 じゃりじゃりと、山道を踏みしめる音が響く。夏の終りで秋のはじまり、ちょうど境の夜には、闇が冴える。そして大気は冷たく香り、何となく、子どもの頃を思い出させる。
 もうすぐ山を抜ける、といった辺りへ差し掛かって、微かに、ギターの音が聞こえてきた。こんなところで弾き語りとは珍しい。そういうものは、街の中でやるものだろう?
 山を下りきったところで、果たして奇特な演奏者の正体を知った。猫だった。
 深い紺色のスーツを着込んだ猫が、野道の端っこで、小作りな木椅子に腰を掛け、涼しい顔でむにゅむにゅ弾いている。
 不思議に落ち着く曲だ。人魚のそぞろ唄、あるいは胎内で聞く母のピアノとは、こんな風だろうか。器用に爪を引込めて、しかし、大した腕だった。星空に似合う曲だった。
 僕は猫の前にしゃがみ、どのみち、一生に一度のことだと、少し聴いていくことにした。ややも経たず、音の間に景色が見えてきた――


なにか人為的なミスがあって、月が崩壊した
その四度目の余波を、中庭のようなところで迎える
白く明るい
少し遅れて、大気が揺れる
地面がふるえ、大木が折れ曲がっていく中で
僕は安らいでいる
白色だけの虹がいくつか、崩れながら、僕の後ろへ飛び去る
電波と磁波が無くなった証拠だ
しばらく田舎へ行くよう、病室の少女に、薦めようと思っている




 夜のオープンカフェに、友人が集まっている。それぞれのテーブルの上には、小さなシャンデリアがきらきら輝いて、友人の顔は見えない。
 近況報告をしあう。僕が『結構大変だ』というと、友人たちも『俺も大変だ』という。
 真向かいの席に座っていた、子どものときすごく仲の良かった友人が、『頑張ってるだけで偉いよ。俺は頑張ることもできない』という。
 そのうち、テーブルと椅子の間がゆっくりと伸びていって、話し難くなってきたので、場所を変えることにした。
 店を出ると、他の友人たちも、ぞろぞろ店を出てきた。ちょっと歩くと、真っ暗い湖が見えた。とても感じの良い所だ。
 歩道が凍っていて、つるつると滑り、歩き難い。
 ふと、空を見あげると、曇り空にいくつも切れ目があった。空にたくさんの窓が開いているみたいだ。そこにひとつずつ星が見える。湖で花火が上がる。それが空の窓に映って、幾十組もの星と花火が、天球上にきらきら輝く。幸せだと思う。
 誰かが記念写真を撮ろうという。僕たちは笑いながら、ぎゅうぎゅうと集まる。





 法律が変わり、日本人は全員、戦地へ送られることになった。子どもも女も。
 ある母親と二人の息子が宿営地から脱走する。門を越えて、森を抜け、荒野に出る。そこに、古い木材製のやぐらが立っている。その向こうの丘を越えれば、自由になれる。
 やぐらでは、脱走を見張る兵たちが、生気を失っている。
 何に使うのか、とても大きなはしごが、やぐらに寄りかかっている。はしごの格は上から半分くらいまでしかない。
 どうして越えようか、と母親が考えている間に、恐怖と希望で、息子の一人が壊れてしまった。
 やぐらに向かって走りだし、上着のボタンをはずして、兵たちに、The Japanese ArmyとプリントされたTシャツを見せながら、『たすけてください、たすけてください』、と大喜びで叫ぶ。
 兵たちは、やれやれといった様子で、その子をなだめようとする。そのとき、ある兵がこの少年を撃った。兵長は、力の抜けた、笑ったような顔をして、ひゅうとやぐらから飛び降りた。それが合図だったかのように、他の兵も、少年を撃った兵も、次々とやぐらから飛び降り、いなくなる。最後の兵が、途中までのはしごを下りて、一番下の格をとりはずし、それで少年の墓を作る。そして誰もいなくなる。
 突然、僕が現れて、そのはしごを下から眺める。砂ぼこりがひどい。はしごの先には塔と夕空がみえる。
 ああ、このはしごは、いなくなった人でできているのか、と納得する。





 何人かの友人と、温泉宿にいる。内装は古く落ち着いていて、雰囲気がいい。囲炉裏は廃れた京都の旧家から持ってきたもので、大きな柱は流木を削って作ったという。その他の調度品も、全て捨てられていたものらしい。
 完全に調和していて、とてもそう思えない。
 考える力と体を動かす力がなくなっていく病気の仲居がいる。もう左腕を上げ下げすることしか出来ない。両腕を使えない客の食事を手伝うことだけが、仕事という。
 なにか事情があって、実家に帰ることになり、宿の主人に挨拶する。

『戻って来られたとしても、もう考えることができなくなっているかも知れない』
『そのときはお客になって、遊んだらいいよ。わははは』

 客層は様々で、僕のように健康な人や、がりがりに痩せた、あと数日で死ぬ人や、今まさに息絶えている人が同じくらいずついて、笑ったり笑わせたりしている。
 僕は、生きているのはこんなに苦しいのに、こんなふうに楽しくやさしく生きられるのかと思い、泣くのを堪えきれない。
 しばらくして、誰かが大急ぎでやってきて、

『昨日の大雪崩に、隣の村がやられたらしい』

 と言う。宿近くの川岸に、遺体が数体流れ着いている。僕は友人たちや、知らない人大勢と、生きている人を探しにいく。





暗い水の中を、とても速く泳いでいる
眼がよく見えない

さらさらさら、さらさら
さらさらさら、さら

ほう、とする音だ
何の音だろう

さらさらさら、さらさら
さらさらさら、さら


――体が冷たくなっていた。ずいぶん時間が経っているようだ。そろそろ帰ろうと、腰を上げかけて戸惑った。
 音が欠けている。いや違う。弾いているのに、響いていない弦があるのだ。指の触れる音すらしない。
 猫は相変わらず、淡々と弾いている。僕は息を詰めていた。小椅子の脚に括りつけられた、小さなランプの炎は、今にも絶えそうだ。
 音のない弦は、二本、三本、するする増えて、ついに最後の一本も鳴らなくなった。
 猫がはじめて、僕を見た。

(いまが いっとう 暗いにゃ)

 本当だ。星がすっかり消えている。






























散文(批評随筆小説等) 永久ギターと星の猫 Copyright kawa 2011-03-01 20:51:10
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