美しいことば
atsuchan69

竹内芳郎著「文化の理論のために(岩波書店、1981)」は、マクルーハンの「機械の花嫁」を読んだときに覚えた興奮以上のものを僕に与えてくれた。

しかし彼の唱える「カオスとコスモスの弁証法」は単なる理論装置を超えて、まさに矮小化された物語に潜む太古の神々のもつ恐るべきパワーとその利用のための解説ではないか。

ぶっちゃけ、文化などというものは、対象に名前がつけられ、舌と唇が震え、言葉として幾度も(複数回)発音されなければ単なる行為でしかない。
とうぜんストレートな怒りや悲しみは文化ではないし、無意識それ自体も文化ではない。
そして文化の役割とは、既存の秩序が設けたタブーである異界との対立、くわえて境界における拒否と迎合のプロセスなのだが、そのことをヒゴロ我々はふだん全く意識していないと思う。
例えば「詩作」において、芸術活動とはイッタイ、凄まじく破廉恥でイケナイことであり、「あー、私、恥しい。今、こんなことをしているんだ」というHな自覚はあるのだろうか?
おおかたの場合は真逆で、さも高尚な行為を行っているようなつもりでフツーではない、酷くイケナイことを極めて大勢の無意識な自称詩人たちが励んでいるのでは…(笑)

そもそも芸術とは「既成」の場所や価値を一度、または幾度でも破壊しなければ生まれ育たない。
と、書いてみたが――もちろん伝承もまた「文化」たりうる。
すでにお気づきの方も多いだろうが、じつは文化には「表」と「裏」があるのだ。
つまり前衛と後衛…、音楽でいえばロックとクラッシックみたいな。
だからHな意識が全く働いていなくても、強ちそれが否定されなければいけない理由もないのだが。
それでも厳しく苦い顔をした死にかけの老詩人に向かって「精進いたします」とか云っちゃってる「機械の花嫁」のみなさん。
フランケンシュタインの花嫁や白鷺城の花嫁もしくは、今も悶々とした淫らな想いの瀬戸の花嫁のみなさん。
毎日おんなじ御飯たべ続けられますか? 毎日おんなじ夢を見続けられますか? 毎日おんなじプレイをし続けられますか?

偉大なるゲージュツ家は、今しも既存の秩序が設けた禁断のタブーである異界の前に立ち、より悪いことや、より不潔なことにアブナイ視線を送っている。

濃くて甘い、残虐な夜の匂いが淡いことばたちの裸体をつつみ、か細い針にのった夢や希望が忽ちのうちに裏切られてゆく幻魔の時刻に。
――危険で不安定な異界との境界における「カオス」との取引は、一瞬だ。ほんの少し、ほんの少しだけココロの純心さへタブーの侵入を許す。
すると高くそびえた鋼鉄の城壁が魔の領域へと前進し、秩序圏はカオスを飲み込んだぶんだけ大きく拡がった。
そして強かな秩序は、昨日までは犯罪者であったゲージュツ家へ「領土を広げた」褒賞として舌と唇だけの自由を与えるのだ。
こうしてゲージュツ家は、自由なる舌と唇をつかって今日も高らかに詩を吟じる。――

そうだ、たった今からは自らの権威を高めるために万人向けの「美しいことば」を復唱するのだ。






散文(批評随筆小説等) 美しいことば Copyright atsuchan69 2011-02-15 16:04:48
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