おせち
salco

 子供時代、うちでは元旦の料理を父がした。七草がゆは飛ばしたが、
鏡割りの日にはひび入った鏡餅を砕いて砂糖醤油味で焼いた「かちん」
や、塩をまぶした揚げ餅を作ってくれた。と言うのも、母が真っ当な料
理を作れなかった。
 田舎の神童気取りで家事の手伝いを免除された育ちも与るのか、主婦
の素質を持ち合わせていなかった。素質というのは器楽的才能にも似
て、努力を加算したところで高が知れる土台のことである。世の中には
血の滲む思いをしても市井のピアノ教師にしかなれぬ者が数多といるよ
うに、随分くやしい思いもしたであろう母は、バイエルさえ満足に弾け
なかった。掃除をしても埃だらけ、整理整頓は右の物を左に押し込んで
終わり、洗濯をすれば洗濯機を壊す奥さんだった。
 当然、家事など人の評価基準にはなり得ないにせよ、家政婦を雇えぬ
ような家庭では間々、生活の評価を左右する要件にはなる。この件で役
立たずな配偶者にムカついている女性も多いだろうが、小器用者の一言
で委縮させられる女性も少なくない。

 勉学を好む知力が生来の気質と結託した女学生のたぎる向上心は学力
競争のみに向けられ、その勝利で満たされていた。長じても家事育児は
任でなく、そのくせ吝嗇なので江戸っ子気取りの父とは価値観が合わ
ず、ゴムのような牛肉から商売の仕入れに至るまでしょっちゅう揉めて
もいた。
 当時の母が作れたのは豚ロースのソテーぐらいで、それが野菜炒めと
共に空中を飛んで冷蔵庫の扉に貼り付く、なんて事も実際あったのだ。
毎日出されれば、いずれ星一徹に変身せねばならないほどそれは父にと
ってストレスフルなメニューだったろう。概してそれしか知らぬ子供達
と違い、経験的に食物のヴァリエーションを知る大人には耐え難いに違
いない。
 してみると一概に無知は恥とは言えず、「博識」の成人男子が妻帯し、
家政上の怠慢を許し難いものとしてこのような挙に及ぶのであれば、枢
要なのは知識より寧ろそこから導き出すべき哲学なのだろう。たかが食
い物、脱糞素材に色を問うアホらしさ。舌上の享楽を人生観に加算する
低俗。そうでなくとも廊下と居間を隔てるガラス戸はよく割れた。

 総じて温厚だった父はまた火打ち石ほどに短気だった。摩擦時の反応
速度は俊敏な、自己スポイル野郎の典型である。こういう男に適した結
婚相手は、少なくともその神経に無用な刺激を与えぬよう万事そつなく
こなす能力が必要とされたように、元来が家政婦に適さぬ女に適した結
婚相手は、ナマケモノか緊張病程度に緩慢・鈍重でなければならなかっ
た。
 要するにこの結婚生活の不幸は根本的な選択ミスにあって、この二人
の組合せである限り次々出来するガキの他は、救い難さの惹起するあれ
やこれやしか生じようがなかったのだ。男は夫なりに我慢し、女は妻な
りに苦しみ、いつしか限界を超えたというだけで、共生はどちらかが忍
従に徹すれば上手く行くものではなく、また妥協し合えば長続きすると
いうものでもない。生活という不可抗力は相性も人格も変えて行く。殊
に夫婦などという、安直な相互依存に基づく人間関係に於いては彼我や
利害の線引きも曖昧になる。おのれを律し徹せる人間の方が少ないに違
いない。

 さておせちとは言え無論、本式の物ではない。父なりの行事料理とし
てイメージされたそのメイン・ディッシュは、分厚いロースハムに缶詰
のパインを寒天寄せにした半ば洋風の妙なもので(ゼリー寄せでないと
ころが和であり、コンソメでなく缶詰のシロップ味なのが妙である)、
家庭料理万端をこなす東北出身の祖母から伝えられたのでは恐らくな
く、どこかで出されたのを見よう見まねで作ったのだと類推するしかな
い。
 元日の朝に声をかけられ、年頭の晴れがましさとお年玉欲しさに起き
て来た(恒例の新品肌着に晴れ目の服を強制された)四人の子供達が食
卓で、各々の前に見るのがディナー皿の中心に鎮座するその寒天寄せ
で、ある年は夜っぴて、またある年は早朝から作った料理の中では最も
インパクトが強く、他は煮〆や丼にてんこ盛りの煮豆(私は中学三年の
正月ニ日に、母が作った白いんげんのそれを受験勉強の傍ら一人で平ら
げてきっかりニキロ太り、関係ないが翌日風疹を発症した。姉は顔に濡
れタオルを載せてベッドに仰臥しているペストっぺー私を発見し、さる
子が死んでいると触れ回った)ぐらいしか憶えていないほどだ。
 今から思えば貧な代物だが、当時の私達にとっては年に一度だけ父が
作る特別な、手の込んだ料理だった。当然ながら冷製なので子供の口に
は雑煮ほどおいしくなかったにせよ、後年母や私が見よう見まねで作り
出した巷間風おせちではなく、正月料理と言えば我々四人はこのハムと
缶詰パインの寒天寄せをまず思い出す。
 だから今年はふと、これを兄弟とその家族に出して昔日を偲ぶシャレ
にしようと思いついたのだが、ウケ狙いにしてはおいしくもなく、正月
早々ちょっと悪趣味かなと結局やめた。何しろあの頃は地味だったの
で、今の生活水準で思い出しても湿っぽいだけだ。幸せなローラ・イン
ガルスほど労奴・エンゲルス家の子供達は父親を敬慕してもいない。崩
壊家庭の子とはそんなものだ。

 普段、父は鶏の唐揚もよく作ってくれた。勿論、手羽や胸肉なんかは
使わない。醤油と生姜とS&Bのコショーをぐちゃぐちゃと揉み込んで
下味をつけ、卵をつなぎに小麦粉の衣をつけた腿肉はボリュームがあっ
ておいしかった。いかんせん、自分の掌に合わせたサイズなのでおむす
び同様、子供の口には巨大だった。その父のおむすびがまた百年の仇で
も三角にしたように堅かったのを思い出す。母の作る料理は総じて(イ
ンスタントラーメンを含め)不味く、父のは大きさ以外は何でもまとも
で上手だった。
 小国民の反動で、終戦後はグレて組に入りかけ親分さんに説諭された
と自慢するアナーキーな父であり、凡大中退後に就職した某某公社をレ
ッドパージでクビになったと吹聴していたラディカルな男でもあり、理
屈に細かい日本共産党にも除名された頭の悪い人間ではあったが、友人
と商売に手を出して失敗したコロッケ屋というのは本当らしく、揚げ油
の温度を間違えてよく破裂させたという回想は実に哀切で説得力があっ
た。


散文(批評随筆小説等) おせち Copyright salco 2011-01-08 01:26:39
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