BGMはカウント・ベイシー
石黒あきこ

いつものカフェ。ハイテーブルとハイチェア。
磨き込まれた木枠に少しくすんだオレンジ色
の座面。向かいの椅子には誰もいない。コー
ヒーカップはひとつ。柔らかな香りを立てて。
 《BGMはカウント・ベイシー
  タンタンタタン》
 カウンターテーブルには老紳士。喋ってい
 る。隣に誰か座っているかのように。身体
 を少し右側に向けて。時折くつくつと笑い
 ながら。軽い手振りを交えて。
あなたがいた。向かいの椅子。いつもと変わ
らない速度で話していた。例えば、亀が卵を
産んだのだけれど、君の気分はどうだい?な
んてことを。いつもと変わらない優しさ。コ
ーヒーカップはふたつ。香りが穏やかに絡み
合う。わたしはうなずく。
 《いともたやすくくだかれるリズム
  タンタンタ、タン》
/入り口のそば。床に黒い穴。じわじわと広
がっていく。真っ白なドレスに内側からにじ
む、止まらない血のように。しゃがんで覗き
込む。何も見えない。風さえ吹かない。黒い。
黒い。侵食される。顔を上げ、見回す。誰も
気づかないの?まるで見えていないのね。こ
っちへ来てはだめよ。落ちてしまうわ/
 《タンタンタンタンタンタンタンタン》

造花のアレンジメントが粉々に割れた。
       《タ》

あなたはいない。向かいの椅子。磨き込まれ
た木枠に少しくすんだオレンジ色の座面。コ
ーヒーカップはひとつ。淹れたてのまま酸化
しない香り。真っ直ぐに立ちのぼる。
 カウンターテーブルの老紳士。時折ひげを
 触りながら、中程まで読み進んだページを
 繰る。マグカップに手をかける。
  黒い穴はなくなっていた。
いつものカフェ。温かなコーヒーを口に含む。
 《BGMはカウント・ベイシー》



       詩と思想2010年9月号読者投稿欄掲載


自由詩 BGMはカウント・ベイシー Copyright 石黒あきこ 2011-01-04 17:42:20
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