バースキャナル
望月 ゆき

 

 /ゆるやかにカーヴした、なまぬるい運河を泳いでいく、とてもとても遠い夢を、ぼくはみていた。かつて、水の膜が皮膚を覆い、閉ざされたその海で、波間をたゆたう、不定形な固体だった。長く、漂っている間ずっと、えら呼吸をつづけていたのに、さかなになれないまま、産まれてしまった。やがて打ちよせられたのは、ひどく不完全な、岸辺。


 /教室で、初潮についての授業を聴くあいだ、窓から入りこんで、わたしばかりにまとわりつく、塩素のにおいと、プールサイドのはしゃぎ声。泳ぎは、にがて。息つぎのしかたを、いまも知らない。教科書に挟みこんだそのにおいを、ときどき持ち帰ってしまう、すると、決まってわたしは、部屋で溺れた。


 /四角い天井を、観測しながら、皮膚をつたって沁みこむ、見たことのない誰かの体温を感じていた。ずっと、ぼくを内包していた、温かい水の主の、手のひら。低く、ひとつだけ発した声が、白い天井にエコーしてそれから、気化した。放たれたならば、それはもう、一部ではなくなる。壁の外では、夏が、一気に速度を増し、ゆうべ羽化したばかりのあぶら蝉の、まだ柔らかいからだを、融かしている。そういえば手の主は、ぼくの性器を、確認しただろうか、


 /学校に通うことが、必然ではないような気がしていて、さしずめ、今この瞬間、わたしの目標といえば、限りなく正確で、狂いのない円を描くことだった。この閉ざされたプランテイションで、栽培され続けるわたしに、やがておとずれる、実りと収穫、それが現実よりもずっと、くるしいものだとしてもわたしは、たぶん、なつかしんでしまう。なにも、なくさないと、ただ思っていた。いたずらに、コンパスで弄んだ指で、赤い液体が、点になる。子宮が、すこしかゆい。


 /性器ではないなにかが、欠けていた、とすればそれは、やはり尾びれだろうか。さかなとして産まれたなら、この湿気た、黒い海のなかを回遊し、誰かの足音を、退屈に聴くこともないのに。未来とはきっと、どこまでも潔く、尊い。けれども、五感のとぼしいぼくの、すべては、イメージの内側でしかない。ねぇ、なくしてはいけないものが、ひとつだけあるとしてぼくは、そのたったひとつを、ちゃんと教わらないままそれを、なくしてしまった。


 /手を、洗っても洗っても、剥がれない汚れに支配されている、気がした。あらゆる不都合が、下腹部に集約されている、一方で、小さく、果実は実りはじめていた。蝉が、七日間の生を終えて、乾いていく。死んでいくときの、最期の鳴き声は、産声ととてもよく、似ている。あかちゃんを、産める体になっただけと、せんせいに言われてわたしは、今朝とは違うわたしの顔で、下校する。昇降口に貼られたポスターが、「いきものをたいせつにしましょう」と発している。帰り道、ときどき不安定に傾く、側溝のふたの上を、小気味よくまたいで歩く。足もとの、ほんのわずかな下水の、流れのなかを、さかなが一匹、滑らかに泳いで、消えた。



「詩と思想」新人賞投稿作品。バースキャナル=産道。






 


自由詩 バースキャナル Copyright 望月 ゆき 2010-12-29 23:03:59
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