無人島に、一冊だけ
佐倉 潮

「無人島に持ってゆく本を、一冊だけ」
 誰がいつ考えついたのだか分からない、自意識の穴に生温い風を注ぎ足す如雨露みたいなクエスチョンが世の中にはあるから、寝ぼけまなこの作家はいびきを呑み込んで「字引き」と答えた。酔っぱらい詩人がしゃっくり混じりに「聖書の詩篇」と答えた。ならば僕は? と考える。それはそんなにおかしなことじゃない。再び訪れる長い夜を過ごすささやかな工夫でしかない。
 そうして掌に包んだコーヒーカップがようやく体温を下回ろうかという頃合い、必要なのはどうやらあの日、君から借りた谷川俊太郎の「手紙」という詩集だということに気付く。
 なぜならば君には黙っていたけれど、あの詩集の著者あとがきの裏には、君に宛てた僕の想いがありったけ書いてあるのだ。そんなのを残して無人島へ行った日には恥ずかしいし。だいいち君がある晴れた朝、偶然その頁を発見して、吃驚して後悔して、僕を追って無人島にまで現れるなんて事態にまで発展するかもしれない。そんな可哀相なこともできないし。だから僕が無人島へ行くと決めたなら、もう一度君のアパートに戻って、もう一度あの詩集を借りに行く。君のことだから、象の寝小屋みたいなあの本棚からすっと、そいつを摘み出してきて、「いつまで?」なんて野暮なことは聞きゃしないだろけど、もしかしたらその時、僕の様子が尋常じゃなかったりして少しだけ不審に思うかもしれない。そんな時、君はいつでも
「どうかした?」と尋ねるかわりに
「バカみたい」と言って僕を睨む。
 あくまで僕の知ってる君でまだいてくれてたら、のはなし。 
 だけど僕は言葉が見つからなくて詩集を手にとってパラパラめくってみるだろう。
「あなた」「私の女性論」「宙ぶらりん」「赤・青・緑・・・」
 幾度も二人で追いかけた言葉達を通り過ぎてそして最後の頁は、やっぱり開けずに終わるのだろう。そうやって僕の言葉はいつも正しい行き場を見失う。
 だから君には悪いけどもし僕が無人島に行くとしたのなら、あとがきの裏だけぺりりと剥がして仲良くなった山羊のおやつにしてしまう。ついでに詩集は貰っちゃうつもりだから、欠けた隙間はぜひ別な『お気に入り』で埋めてほしい。僕のひとりよがりな行為が生んだ、それが唯一つの自然となるよう祈るから、無人島から、心から。




 


自由詩 無人島に、一冊だけ Copyright 佐倉 潮 2010-12-21 07:51:43
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