まずはURL、
チアーヌさんの書いた詩「かわいい匂い」は下のリンクから読める。
http://po-m.com/forum/showdoc.php?did=20788
それからお断り、私のこの文章は、あくまでも「私見」であって、もしかしたら批評ではない。ひょっとしたら感想ですらない。あくまでも「私見」である。わたくしごとである。この「かわいい匂い」という作品に対し、私は、わたくしごとに関わる書き方しかできそうにない。
ご存じの方はご存じであろうが、私は結婚して十一年を迎える主婦であり、かつ不妊症であり、不妊の主な原因は、私自身の若いころのバカな行動(摂食障害)にある。私はなるべく自分の行為を後悔しないことに決めているので、若いころのバカな行動のことも後悔したくはない、それはそれで私に必要なことであったのだと考えることにしている。とはいえ、そのバカゆえに知ることができなくなってしまったもの得られなくなってしまったものはある。それはもちろん自分の子どもというものであり、子どもを持つということにまつわる感情や、親になったという気分や自覚である。
というわけで、先に断言しておく。私には、親の気持ちなんぞわからん。母親の気もちなんか知らん。私は冷たい石女である。そんなことは自分で知っている。だから、作者チアーヌさんや、そのほかの母親のみなさんにひとつだけお願いしておきたい。「こどものいないおまえにはわからない」という台詞を私に向けないでいただきたい。その台詞は私にとって刃だ。向けられることに慣れた刃ではあるけれど、いくら慣れても刃であることに変わりはないので、あまり向けられたくはないのである。
しかし私は子どもを書いた詩が嫌いというわけではない。
たとえば、俳句で、「短夜や乳ぜり泣く子を
須可捨焉乎」というのが 竹下しづの女にある。これなら私にもよくわかる。短く寝苦しい夏の夜、子どもがギャースカ泣いていたら、捨てちゃおかという気分になることもあろう、想像はつく。「須可捨焉乎」という半ば自棄をおこしたような漢文調も、この俳句の気分によく似合う。ここはひらがなではいけない。ひらがなではやさしく女性的になってしまう。
あるいは、子どもを書いた有名な詩がひとつあって、あれは確か千家元麿だったかしら。風呂上がりの子どもを追っかけ回す母親を書いた詩だった、タイトルあやふやだけれど「秘密」というタイトルだったかな。あの詩ならば、私は嫌いではないのだ。客観的な三人称で書かれた子どもと母親の姿は、母親のせわしなさにも関わらず、読者を落ち着かせこころ穏やかな気分にさせる。子ども嫌いで母性愛なんか信じない私のような読者をすら、だ。そんな詩だって、この世の中にはあるのだった。
チアーヌさんの「かわいい匂い」を最初に読んだとき、私はわりと単純に、うん、なかなかいい詩だねーと思い、ポイントを入れようとした。しかしなにやらひっかかるものを感じ、読み返した。ひっかかるのは後半ではなく、前半だという気がした。それで再々度読み返した。それでようやく、「かわいい」という言葉にひっかかったのだと気付いた。しかし、後半二連の出来は、うらやましいくらいだと思った。
「わたしの内臓の匂いがした」生き物は、文字通り、現実的な意味でも、「わたし」の分身である。「わたし」を愛することができない人は、「わたしの内臓の匂いがした」生き物をそう容易には愛することができない。しかし逆に、「わたし」を愛することができる人なら、自分の分身がいとおしい、かわいく思えるのは当たり前である。その点に思い至ったとき、この詩はずいぶん母性的なよい詩に見えるけれども、実は、強烈な自己肯定・自己愛の詩に過ぎないのではないか、と私は考えてしまったのであった。とはいえ、強烈な自己肯定の詩が悪いとは言わない。そういう詩があったって私はかまわん。
この詩を(私にとって)ひっかかるものにしている「かわいい」という言葉は、たとえば恋愛詩における「愛してる」「好き」などという言葉と似たような問題を持つ。要はあまりにも当たり前すぎるのである。好きだと書いていいなら詩は要らない。淋しいときに淋しいと書いてすむなら詩は要らない。同様に、実際かわいい生き物をかわいいと書いていいならば、いちいち詩になんてしなくっていいはずだと私は思う。「かわいい」という言葉を使わず、泣いている子どもの「かわいい匂い」を表してこそ詩なのではないかと私は思う。
もうひとつひっかかったのは、泣いている子どもの感情を、この詩がもしかしたら無視しているということだ。あくまで「もしかして」だけれども。子どものときのことをちょっと思いだしてほしいのだけれど、湯気をあげるほどに泣いているときって、本当に本当に心の底から悲しくて泣いたのではなかろうか? そんなとき、抱きしめてもらうのはともかくとして、くんくん嗅いでもらいたくはない。「かわいい匂いがする」とも言われたくはない。子どもによるのかもしれんが、少なくとも、私はそうだったと思う。
しかしもちろんこんなことは私見だ。私見なんだろうと思うよ。