燃えないごみの日
salco

何もかもが過ぎて行く
そして何もかもが帰って来る
落とし、奪われ、失くした何もかもが
心の中では連綿と紡ぎ直されてつながって行く
これをウィーヴィングと呼んでいる
トリックとまでは行かない修復作業とでも言うか
ハッピー・コンティニュイング
物語はこうして途絶しない

過去の出来事は心に消えない
見えぬ弾痕は深く食い入り神経を焼き続ける
けれど今、眼前に狙撃者がいないのと同様
記憶の脅威もまた現実には存在しない
吹き荒れた暴風の正体は一過の気象に過ぎない
そんなものより今も在り続ける自己こそが強大なのだ
そして尊い
今日在るという、絶対的な勝利
これこそが脅かしを凌駕し駆逐する力に他ならない
鈍足でコーナーを回っている記憶にも
ゴールテープを切る時が必ず来る
それまでは日々の安堵を言い聞かせ
大きな手に守られているという事実を
心に蓄積して行くしかない
いずれ自分自身が葬り去られる時が来る
その遥か以前に傷痕を埋葬することが、
心という柔らかな不可侵の地平にはいつでも
必ずできるのだ

喜怒哀楽
期待と幻滅
好悪愛憎
虚偽と煩悶
私達の心は否定の裡に日々死に
肯定の裡に復活を遂げる悠久だ
果てしなく連なるオン・アンド・オン
その塩基配列にも似た営みが
小さな人間の儚い存在に集束している
「今」
変遷の中軸に常に据えられる、この一点にこそ
自己の集約・普遍がある
滅びても尚甦り
時を超えて呼応を続ける永遠がある
無明の未来を恐れて何になるだろう
今日まだ存在せぬ明日もまた虚であり
実ではない
幽霊を予知するばからしさ
なるほど先は不可知の虚ろであり
崩壊の轟音に満ちているのかも知れない
またそこに身を潜めている死が
実存の帰着点であるに変わりはない
私達は必滅の口へ時々刻々と
予告も猶予もなく運ばれるだけではある

魂という概念が人体機能の何に仮託されているのか
私は明確には理解できない
いわゆる死後生も信じていない
臨死体験の画一性は脳内麻薬のメカニズムでも説明されており
来世などという観念は、
愛惜を含めた執着の業を反照しているだけなのだとも言える
行って帰って来たと言う人、
誰それの甦りだと標榜する人がいて、
その実証手段は不死の者と同様、存在しない
すなわち死は
面でも線でも点ですらない、
無の酷薄なのだと定義するのが最も妥当であり
同時に千万言を費やして無極化するほどの現象でもないのだ
ただ一つ、
この実相について此岸で目の当たりにできるのは
死はこんなにも小さな個体の
「在りき」
という事実をまで消去できないということだ

私達の生は無常を漂う微細な塵挨でしかない
誰の目にも記憶にも触れぬ、極小の分子に過ぎない
頭蓋に貯え込んだ理も知も記も、見方によっては
営々と五感の反射に準じる蟻の愚直よりむしろ非力で
個の存在意義は希薄だと言えるのだろう
「それでも」
かつてこの惑星の大気を呼吸したことが「あった」
慰藉に満ちた青空を見たことが「あった」
一度は旅する雲と会話したことが「あった」
雨の滴に打たれ
日の光に浴して目をしばたいたことが「あった」
時に虹の祝福さえ享けながら
そして愛する者の胸に耳をつけて心音を聴く幸福を暫時、知って「いた」
傍らの人が、無言の裡に名を呼ぶのを聞いたことが「あった」
この僥倖は、いかなる不幸や絶望によっても挫滅しない、
また生命自身に内包された死という宿命にさえ手出しできない、
私達の実質なのだ
こうして私達の心は、生命は
絶大なる終末に気高く対峙し破滅を超越する
水平線の向こうは奈落へ落ち込む瀑布だと思っていた人達のように
行き着き又は迫り来る何かを恐れる理由など微塵もありはしない
存在は崇高な事実だ
神仏よりも、観念的には既存世界よりも絶大で
即物的には地球と全き等価を示す
この儚い偉大をそして愛してやまない

そして邂逅
その人が私の名を呼ぶ声を
いつでも耳の中に聞いている
どんな楽の音よりもそれは尊い響きで命を洗う
たとえ彼らが去ろうと私が死のうと
何よりも懐かしい声その一語の呼びかけさえもが
既に消滅を超越しているのだ
なぜなら私達の邂逅こそがあらゆる奇跡の母体だから
新人類七万年の営みの中で、今という一刻に偶然出逢い
六十八億人の中で互いを知り、離れ難く結ばれている
この必然の強靭
その無敵
宇宙の無限、地球の悠久の中では刹那にも満たないその存命は
ゆえにどんな超新星より質量が大きく、輝きは強い
私の生をまばゆく照らした光
私はそれを、彼らを心に抱いて消滅しよう
それだけが全宇宙に等しく遠大の存在を続ける真実であると
こうして知ったから


自由詩 燃えないごみの日 Copyright salco 2010-10-31 07:24:19
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