陰湿機
「Y」

 新宿の家電量販店に、除湿器を買いに行った。
 除湿器というのはなかなか使える家電で、雨が多い日などにヒーターと併用すると、室内に干した洗濯物の乾きがとても早くなる。
 何種類かの除湿器を物色している最中、奥の目立たない場所にもう一台、これも除湿器ではないか?と思われるものが置かれていることに気付いた。
 なんとなく気になったので近づいてみると、奇妙な違和感を覚えた。
 理由ははっきりしないが、見ているだけで苛々してくるような気がするのだ。
 色が真っ黒なせいだろうか。
 性能も値段も書かれていないその除湿器が妙に気になって、一番近くにいた若い店員に声をかけてみた。
「済みません。ちょっといいですか」
「はい、何でしょうか」
 店員に、その黒い除湿器のことを訊ねると、彼は露骨に嫌な顔をした。
「ああ。これですか。これはですね、「陰湿機」と言いまして、除湿器とは似て非なるものなんです。ですからお客様、除湿器をお求めということであれば……」
「陰湿機」という怪しげな名称を持つその機械から、無理やり私の注意を引き離そうとした店員のそぶりを目の当たりにした私は、なんとなく意固地になった。うまく説明することができないけれど、(お前の言うとおりにはならないぞ)という気持ちになったのだ。
「ちょっと待ってよ」と私は言った。「陰湿機って、何それ?何か、興味があるんだけど。説明してみてよ」
 店員は虚をつかれたように目を丸くし、「はい?」と言った。
「いや、だからさ、除湿器はとりあえず置いといてさ、これが何なのかなと思ってさ。何なのこれ?」
「……は、はい」
 店員は露骨に(困ったな)という顔つきをしている。それで私も、単に意固地ということではなく、純粋に、人目をはばかるように売り場の奥に置かれているその黒い機械に対する興味を掻き立てられていったのだ。
「あのですね。これは文字通り、スイッチを入れると同時に、部屋の中にいる人が陰湿になるという、そんな機械なんです。つまり、喧嘩をしたり、いがみ合ったりとか、そんな雰囲気を醸し出すんですよ。本来は、医療機器売り場に置かれるべきものかもしれないんですが」
「へえ……まあ、陰湿機と除湿器とでは語呂は似てるけど、用途が全然違うもんねえ」
「ええ、そうなんです。ところが、医療品売り場の方からは、こういう変な機械は置きたくないと、反発を受けまして、実は私も困っているんですが、一応は私が陰湿機担当ということになっておりまして」
 私は咄嗟に彼の胸に貼られた名札を見た。「加藤」と書かれている。まだ二十歳台半ばだろう。目が小さく、おちょぼ口で、顔の中心部がめりこんだような顔の作りになっていて、ひょっとこを連想させる顔の持ち主だった。
「へえ。たいへんなんだねえ。だけどさ。こんなものを使ったら、まずいことになるんじゃないの。喧嘩とかしたりして、平和な家庭も不和になるだろうし」
「そうですね。おっしゃるとおりです」と加藤店員は答えた。「これはもともとNASAで開発されたものなんです。狭い宇宙船の中で長期間生活する際に、乗組員に要求されるのは、肉体的タフネスと同等もしくはそれ以上に、精神的タフネスだそうなんですね。で、乗組員を精神的に鍛え上げるのを目的として開発されたのがこれだということなんです。つまり、船内に見立てた部屋の中で、乗組員同士に擬似的な宇宙生活を体験させる。その最中にこの『陰湿機』のスイッチをONにする。当然みんな苛々してきますよね?言葉も態度もとげとげしく陰湿になり、一触即発の非常に危険な空気が醸し出されるんです。僕も一度、その実験を記録した映像を見たことがあるんですが……」
「見たの?本当に!……で、どうだった」
「もう、壮絶な殴り合いですよ。擬似船内で、乗組員同士が。凄かったです」
「殴り合い?……て、それじゃあダメじゃん」
「いや、だから、それを繰り返すことにより、耐性を付けていくんです」
「へえ。耐性ねえ。何か面白いなあ。いや、だけどさ。これって宇宙飛行士は便利かもしれないけど、一般の人には使えないよね」
「ところがですね。そういうわけでもないんです」と加藤店員。「一番使えるのは、これから結婚しようとする若いカップルですね。つまり、本当に人生の伴侶足りうるのかを、この機械を使ってチェックするわけです」
「できるの?そんなことが」
「できます」と加藤店員は自信を込めた表情で頷いた。「その場合、目盛りは『弱』か『中』ですが。『強』や『最強』にすると、どんなに相性のいいカップル同士であっても、駄目です。即破談という恐れが出てきてしまいますですね」
「……『最強』もあるの?」
「はい。ただし、『最強』は、パスワードが必要です。簡単には押せないようになってます。戦争で言えば、『核』の世界ですから」
「……」
 加藤店員の話を聞くうち、私の中で、徐々に不安な気持ちが湧き上がってきた。悪用しようと思えば幾らでも悪用できそうではないか……。と、そのとき、私の心を見透かしたように、加藤店員は言った。
「ですが、年内を持って、国内では『生産中止・販売終了』となることにはなっていますが」
「だろうね。聞いただけでやばいと思ったもの。慰謝料目当ての結婚とか、別れさせ屋が使うとか、まずいよ、これ」
「ですね。正直、僕も、店員の立場としてほっとしているんです」

*******

「どういうつもりなのよ。これ。ちょっと、信じられないんだけど」
 妻が怒るのも無理はない。
 除湿器を買ったついでに、「在庫処分品なので、引き取っていただけませんか」という加藤店員の懇願に負けて、「陰湿機」まで買わされてしまったのだ。魔が差したとしかいいようがない。幾らタダ同然の値段とは言え、使い道のない商品を購入したということになれば、ドブに金を棄てたのと同じだということになる。
「申し訳ありませんが、この製品に限っては、当店としても捨て値ということですので、返品NGということでご容赦くださいませ!」と言った加藤店員の嬉しそうな顔を思い浮かべ、私は舌打ちした。
「あのさ、その店員が加藤っていうんだけどさ、ヒョットコみたいな奴でさ……」
「そんなの関係ないわよ!なに考えているのよ!」
 私の見当はずれの返答は、妻の怒りの炎に油を注ぐ結果となってしまった。私に反撃の余地は一切無い。私にできることは、「陰湿機」の箱を、妻の視線が及ばない私の書斎に隠しておくことぐらいだ。

 現在も「陰湿機」は、箱に入れられたまま、私の書斎の一角、書棚の横に置かれている。買ってから数日のあいだは、この機械を有効活用する妙案が無いだろうかと頭をひねっていたが、今はそれもやめてしまった。ところが、どういうわけか、この「陰湿機」を棄てる気にはどうしてもなれないのだ。
 ある晩私は、ベッドの中で妻に打ち明けた。これから先も、「陰湿機」を使う見込みはないけれど、そうかといって、棄てる気にはどうしてもなれないのだということを。
 あの機械を買ってから、ずいぶん日にちも経っているし、妻の怒りも収まっているだろうと思ったのだ。
 妻は「ふふん」というような、鼻にかかった微妙な声を出した。それで私は何となく安心した。その「ふふん」の中に、怒りが混じっているようには聞こえなかったからだ。
 妻は「棄てなくてもいいんじゃないの」言った。「あれって、変な機械だよね。箱を開ける気にはなりっこないし、触るのも嫌だけど、妙に存在感があるんだよ」
「……存在感?」
「うん。あなたの部屋に掃除機をかけているときとか、そう思うの。私もあれは棄てないほうがいいと思うんだ。なんとなくだけど」
 私は妻の言葉を意外なものに感じ、彼女に訊ねた。「使う見込みもないのに、どうして棄てないほうがいいと思うんだよ」
「そうだねー」と彼女が言った。「なんか、バカみたいだけど、家の中の悪い空気っていうの?陰湿な空気を、あの機械が吸い取ってくれているとか、考えたりしているの。スイッチを入れたら陰湿が出てくるんなら、スイッチを入れないで置いておけば、陰湿を吸い取ってくれるなんてこと、ないのかな。そんな風に考えておけばいいんじゃん、とかね。とにかく、使わないものでも、新品なんだし、棄てちゃ駄目だよ。だから、あのまま置いておけばいいんじゃないの」
 私は妻の言葉に「そうか」としか言わなかったが、この衝動買いの一件が、妻の中で、怒りとは異なる別の何かに姿を変えたのだということがはっきりしたので、とりあえず安堵した。
 
 現在この拙文を書いている最中にも、私の視界の隅には「陰湿機」の箱がある。あの機械が家の中の「陰湿」を吸い取るなど、もちろんありえない話だが、私の妻も、なかなか上手いことを言うものだと思う。
 
 ……そんなわけで、我が家の「陰湿機」が粗大ゴミとして処分される予定は、今のところ無い。
(了)


散文(批評随筆小説等) 陰湿機 Copyright 「Y」 2010-10-10 13:29:59
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