白い白い土蔵のなかで
吉岡ペペロ

伊藤くんがなにかべつの存在に入れ代わっていた

双眸にうかんだ青い月影

柔和に引きつれた微笑にそれが凄絶をあたえている

土蔵の板窓が震えているのは僕のふるえでも風で起こったものでもなかった

きょう伊藤くんは帰り道

ぼくはたたかうことにするよ、と言ったのだった

新見たちとか、

とつぜんの伊藤くんの宣言に僕ははっきりと困った

ちがうよ、

え、だれとたたかうの、

伊藤くんは肩をぐらつかせながら僕のほうを見やって

石川くんは心配することないよ、と言って、ごめんね、そう照れ臭そうな顔をした

伊藤くんはまるでたたかうような気質のひとではなかった

諏訪の森のまえでわかれて伊藤くんも僕も家に帰った

母さんのおはぎを食べながら母さんの質問に僕はてきとうに答えていた

僕はうまれつき太りやすいたちでそれだけが原因ではなかったけれど級友によくいじめられた

伊藤くんだけが僕に堂々とやさしかった

いや、伊藤くんはだれにでも優しかったのだ

伊藤くんはクラスでも、いや学校中でも一目置かれた存在だった

ぼくはお父さんのような宗教家になる、

そんな口ぐせの小学生などほかにいるわけがなかった

みんな伊藤くんならなれると思っていた

何人ものカバンを持たされて歩くのが遅いと小突かれているのを伊藤くんが助けてくれたことがある

やめろよ、な、

伊藤くんは足が悪かった

伊藤くんは松葉杖をついていたのだが悪ガキたちは伊藤くんの凛とした声に恥ずかしくなったかのように去っていった

石川くん、大丈夫か、伊藤くんはそう聞いてくれたけれど僕も実は恥ずかしくなっていた

伊藤くんは足が悪いのだ

僕なんかよりも喧嘩は弱いに決まっている

たくさんいたから勝てたんだよ、伊藤くんはそう言った

むこうがひとりとかふたりだったら、ぼくたちはぼっこぼっこだったよ、

僕はなんで?とその理由を聞いた

たくさんひとがいたら、正しいことが通ってゆくもんなんだよ、

僕はあのときの伊藤くんの言葉をいまもはっきりとおぼえている

その伊藤くんがたたかうと決めた相手とはだれなんだろう

新見たちではないとしたらいったいだれなんだろう

僕は心配で伊藤くんの家を訪ねた

たぶん妹さんだろう

玄関のまえのみちにおおきな枝で字を書いていた

ねえ、伊藤くんは?

そう聞くと女の子は玄関のなかにはいってしまった

伊藤くんの家はお寺だ

僕もお母さんに連れられて何度か来たことがある

なかからは野太くて明るい、声がしていた

きっと伊藤くんのお父さんだろう

読経しているのだ

それはとぎれとぎれの子守唄のようにも聞こえた

僕は女の子がはいっていったまま空いている玄関に足をいれ

伊藤くん、石川だよ、と二度三度おおきな声で叫んだ

子守唄のような読経はまだ続いている

伊藤くん、石川だよ、と僕はもう言うのをやめにした

伊藤くんのお父さんの読経に僕の声はそぐわないような気がしたのだ

あら、石川さんの息子さんじゃないですか、

伊藤くんのお母さんが出てきてくれた

伊藤くんと遊ぼうと思って、

お母さんは口もとに笑みと人差し指をたてて僕を土蔵に案内した

なんでも伊藤くんはお父さんに叱られて謝るまで出してもらえないのだそうだ

土蔵を僕は見つめてそのままからだが動かなくなった

なかからは伊藤くんの読経が聞こえていた

伊藤くんのお母さんはあのとき僕をなぜあそこに案内してくれたのだろう

もう二十年以上がたつのにますます分からなくなるばかりだった

伊藤くんのお母さんは、ここにしばらくいなさい、というような笑みを浮かべて僕をのこして行ってしまった

しばらくすると伊藤くんのお父さんさんの声にお母さんの声がかさなっていた

土蔵のなかからは伊藤くんの読経が聞こえている

伊藤くん、僕は土蔵に向かって叫んでいた

さんにんの読経が続いていた

僕も地べたに座り込んでその子守唄のような呪を叫んでいた

そしてしばらく夢を見ていた

眠ってしまったのだろうか

夢のなかでは伊藤くんの妹さんが話していた

おにいちゃんはね、お父さんのお弟子さんと口論になったの、

ほんとうに妹さんと話していたのかも知れない

それでお父さんに怒られて、あのなかで反省しているの、

伊藤くんにまちがったことなどない、と叫んでいた

叫んでいたのは子守唄を叫んでいた

4月のまだ早い夜が青くしめっていた

もうだれの読経も聞こえてこない

白い土蔵がめのまえにあった

伊藤くんの妹さんはいつのまにか消えていた

あたりを見回していた

僕は土蔵よりも白い月を見つけて

伊藤くん、月が白いよ、土蔵よりも白いよ、

そう言って土蔵に駆け出していた

板窓のすきまからなかをのぞいてみた

片ひざを立ててあぐらをかいている伊藤くんがいた

土蔵の天窓からは月のひかりが差し込んでいた

双眸にうかんだ青い月影

柔和に引きつれた微笑にそれが凄絶をあたえている

土蔵の板窓が震えているのは僕のふるえでも風で起こったものでもなかった

伊藤くんがなにかべつの存在に入れ代わっていた








自由詩 白い白い土蔵のなかで Copyright 吉岡ペペロ 2010-10-06 00:44:02
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