サインバルタ
佐藤伊織

人間はたまねぎのような皮ばかりだ。どれが本当のわたくしというものはなく、あるのは薄い皮ばかり。

ニーチェ→フーコー、ベルクソン→ドゥルーズというのは中2病の系譜ではないかと思いはじめた。では、それでは今ってなんなの?今ってどういうことなの?というところで道が拡散している。現代というのはいつでもそういうものなのか、それとも今という世界が一つの思想を求めないのか、それともあのテロ事件以降と以前でまた話が違うのか、東氏の本を読むと「構造と力」が流行ったニューアカデミズムの雰囲気がスライドしてそのままオタクの世界にあてはまるような書き方をしている(と僕は読み取った)。それをいうなら日本にはオウム、阪神大震災以前と以降に断絶があるように思う。思想と言うものが何か局所的な効用しかないとしても今を語っている思想というものはなんなのか、それは何処で語られているのかが気になっている。そういうものが先取りして語れる場が表現の世界なんだろう。

ニーチェ→実存主義→世界大戦、狂気

新たな構図が引かれたはずだ。誰かがそれについて話しているはずだ。それに気付かないのか、それは公然と語られているものなのか。

この社会が狂人の墓場だとして、「正常」人がいなくなったら一体誰がそれを狂人と呼ぶのか?、そもそもそれを狂人と呼ぶ僕は間違いなく狂人と認定されている。誰に?狂人によってだ。

今わかっていること

人間というものが特権的なものでなくなって
生命というものが実は生命的な現象の一部であって
精神というものが器は何でも良い一つの位相であって
世界は情報の見えかたによって3次元にも2次元にもなって

階層的な宇宙像

階層の部分から全体は見えない

上部構造は下部構造からはみえてこない部分がある

にもかかわらずこの階層は続いている

物理法則というものは一体なんだろうか

物理法則と思考というものはどういう関係なのか

思考の枠が物理法則を規定しているとする

私達がわかるように宇宙があることの不思議といわれているもの

宇宙が理解できるように私達の前にあるという信仰

私達の脳を超える存在について考えたくなる

脳と宇宙は何か関係があるのだろうか

内なる宇宙とこの宇宙との関連というと中世の思考に戻ってしまうのかもしれないが

手をおいて、右と左にわける。

有と無。

なにかとなにかはなにかによって別れる

なにかによって二つにわかれていく。

何かがあるということは何かがないことがありえるから。

右翼が生まれるのは左翼がいるから。

二つが溶け合い血管と血管が結ばれ

精神が宇宙と関係していない理由は何だろうか。

量の時代 科学の時代 科学の生命化の時代

実に面白いことに 科学は二つにわかれる

前科学の時代と有機的科学の時代だ

生命は抽象化されどこにでも実装できるプログラムとなった

生命と言語の中間体

言語型生命と生命型言語

機械化、生命化の次にくるものは

宇宙には亀の甲羅にのっかっているということが

真実だとしたら?

宇宙は二つに別れる

あるものとないものに

機能的なものと機能的でないものに

影の世界が重力相互作用しか通さないとすれば

何も相互作用しない世界だっていくらでもあるのではないか?

物理学は自由に余分な変数を付け加えることができる

矛盾さえしなければ

単にその最小セットをとっているだけだ

最小セットを取ってくる理由は社会的な理由だ

それこそニーチェやフーコーの世界だ。



何かを欲する。欲望は何を欲望する?あれでも良い、これでも良いとするなら、それを選ぶ理由がどこにある?どこにも行けるなら何処へいく?私達はゆるやかに死んでいる。私達は死人と連続的なつながりがある。古典論でいうなら死人と直結した4次元時空の多様体だ。しかし、量子論的にはどうなのか?私達は死人と直結した何か?なのか?


私達の欲望は他人の欲望だ。それで良いとみつをならいうだろうか。「本当の」と言うコトバはもう現代では意味をなさない。だって私達はたまねぎの皮であることを知ってしまっているから。

僕の一時的な回答は、この世界に没入すること、一所懸命その役になってみること、くらいだ。誰かが存在の神秘をみせようとするなら、そこから背を向けることだろう。これじゃまるで社会人の新人への説教そのものじゃないか。何事も本気でやれば面白いこともある。生きることは苦痛だ。


記憶は円環である。つまり記憶とは未来を夢見させる装置だ。だから私達は治療の過程で記憶をなくしていく。未来を孕む過去を消すために。

誰も記憶しなくなった過去は存在するか?

誰もしゃべらない言葉は存在するか?

言語以上の言語は存在するか?

未来の先はあるのか?

時間は本当に一つしかないのか?

私達は生まれる。何故?

何故、意識するこの私が人間のこの世界のこの肉体にいる?

何故、この意識するこの私がときどき眠ったり記憶があいまいになったりしたりする?

死というのは醒めない眠りなのか?

死とは何か?

生の裏返しではない死とは?

私という錯覚を錯覚する私とは?

コトバで伝えられないものをコトバで伝えられるか?

瞬間というものは相対的な概念である。これは何を意味するか。

夢の中で夢をみる。昔から問題になっていた問題だ。

夢の中の夢

鏡の中の鏡

無数の更に先を数えつくすと

何があるのか

たまねぎの皮はどこまでむけるのか



よくわからないのでここで一つ詩を書いて終わりにする。


僕が
ぼくが
僕が
ぼくが
ぼくがが


がぼくが
が ぼくが が
それ という ぼく が
せかい という せかい が
それ  が   これ   が


一切の 幻を 
極限を 取る
ことの 意味
無限の 日昨
斉一性 許可
斉一生 過去
斉一性 無限の



ああ

無限の無限

無限
のむげんんんの
mああああ mmっまあ

ぼくが首をつった
幽霊がそれを掴んだ
回転する僕の首
回転する幽霊

イデアが
終わる

一切の 幻を
極限を 取る
ことの 意味
無限の 日昨
斉一性 許可
斉一生 過去
斉一性 無限の
一つが終わりなき日常を
1対1対応でさきほど数え終わりました

飛び出す前に飛び出す前に飛び出す前に飛び出す
怒り狂い泣き叫び喜び狂い死ぬ

世界を抱きしめて
今数え終わりました



自由詩 サインバルタ Copyright 佐藤伊織 2010-09-30 03:12:52
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