輪郭は絹糸の様に緩やかでそれは触れることなくただ行先を追いながら、そしてなにもかも求めるようなことが...
ホロウ・シカエルボク




死から始まるものたち、死から始まるものたちの臭いは、退屈と無色に満ちて、俺はまぶたと口を縫われ鼻を塞がれたもののようにいらだって声をあげる、そんなものになんの意味もありはしない、しかし、ひとつの流れのリズムを変えること、それは気分を変えることにはそこそこ役に立つとしたものだ、少なくともある種の法則に従えばある種の変化は望める、そんなプロセスをいくつか手に入れるくらいのことになら―もちろん、プロセスや法則に依存するのは馬鹿のやることに過ぎない、そのことに意味を求めすぎてはいけない、決していけない…それは誰かをどこかへ連れて行くような劇的なエンディングへ導いたりするようなことは絶対にない―なにかが到達点に達するといったような効果は絶対に望めない―だいたいこの世界はシナリオなど随時書き換えられる偏執狂的なアドベンチャーゲームみたいなものなのだ、フローチャートなんか何の意味も持たないことを出来るだけ早く理解したほうがいい、プロセスや法則は誰を何処へも導いたりすることはない、むしろ動きをぎこちなくさせていくつかの点上で勝手に果てて終いになるような夢を見せるぐらいの真似しかしない―すべて、なにもかも、あらゆるものが定形を持たずに流れているのがこの世界の本質なのだ、そのことを絶対に忘れてはならない、寄り掛かるべき真理や摂理は柔軟に形を変えながら流れて行くスライムのようなものでなければならない、確かな形を持って脳髄に語りかけてくるもの、そんなものはひとをそこに縛り付けて動けなくさせるための都合のいい嘘、でっちあげだ―確かに見えるものだけは絶対に信用してはならない、確かに見えるものだけは絶対に飲み込んではならない、確かに見えるものに寄り掛かってしまったら思考は安定してしまう、思考が安定すれば、存在は凍結してしまう―変化し続けるからこそ存在は存在であり、思考は思考なのだ、だからこそ有限なのだ…骨や、神経や、筋肉が入れ代わり、劣化したり、そのおかげで純化したりもするのだ、生まれ、発達し、腐敗して行く以上、そこに寄り添うものが変化出来ない信念であってはならない、もしもそんなものに寄り掛かってしまったら、そう―ただの見てくれのいい馬鹿みたいなもんで終わってしまうぜ…死から始まるからこそ、それは見極められなければならない、それは有限なのだ、分かるだろう―ひとつの細胞の終わりには、ひとつの宇宙の終わりがある、死骸が折り重なりやがて熱を発して、動いているこの身体は温かい、窓の外が太陽や月や雲や雨によって彩られる、それと同じものがここにもある…これは最小であり最大でもある、それはつまりその中のどんなものでもあり、またその単位は限定されない、つまり―あってないようなものである、あってないようなものというのは、そうと識るか識らないかという部分にこそ意味がある、それは有であり、それは無である、またそれは、誰が、何時、何処でといったような、様々な要因によってまるで見え方が違う―それはときによって見えないということでもある―流れて行くものに確かな形を求めてはならない、流れのままに寄り添わなければならない、寄り添えないものたちがどれだけ酷い自家中毒に陥っているか、それはひとたび彼等に触れてみればすぐに分かるだろう、彼等の言葉を聞き、彼等の書いたものに目を通してみれば、すぐに知ることが出来るだろう―否が応でも、すぐに理解することが出来るだろう―それだけそうした連中はおしまいに満ち満ちているのだ、例えばいま窓の外でいくつかの音がする、そこにいったいどんなものを認めることが出来るだろう、詩か、音楽か、それとも絵画か…それともそれは、ただの営みに過ぎないのか、また、ただの営みは、詩や音楽や絵画ではありえないのか…?俺はいま立って歩きながら、無分別にキーを叩き続けている、これはなんだ?詩か音楽か絵画か、それとも営みか…それともそのすべてであり、どれでもないのか…定められたものを決して信じるなよ、道端に立ち尽くす物言わぬ案山子みたいな有様になりたくないのなら…俺は流れの中で心を静かにする、それは愚行であり善行でもある、それを識る俺は罪人であり賢者でもある、盲目でもあり千里眼でもある―なにも見えないが、はるか先まで知ることが出来る。




自由詩 輪郭は絹糸の様に緩やかでそれは触れることなくただ行先を追いながら、そしてなにもかも求めるようなことが... Copyright ホロウ・シカエルボク 2010-09-29 15:38:05
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