死について mixi日記より
前田ふむふむ
数年前のことであるが、東京・新宿の某所で
在る人道主義を標榜する学者の講演があり、僕は、たまたま聴く機会があった。
そこで講演者は、「人間はうまれる時は、一人ではないのである、少なくても、
母親に抱かれて生まれてくる。だから死ぬ時も、決して一人であってはならない。
必ず誰かに看取られながら死の旅路に付かせるべきである。そして、そうすることが、逝くべき人間の尊厳を尊ぶことである。だから、私もそのように心がけてきた。」という話をした。
そのときは、とても感銘を受けて、その話を、一編の詩にした事があった。
僕が年を取って、そろそろ、死というものが、ある程度現実的なものになってきている、だから、そういう心境も理解できるようになってきて、感傷的な思いに浸っていたのかもしれない。
また、父の死を看取り、母が高齢になった現在において、人としては、やはり、そのようにあることが、当然であろう、と自らの確認作業として、そして、自らのこれから将来あるだろうことの善人としての正当性を獲得することができるという満足感で、感銘を受けたのかもしれない。
しかし、今思えば、死とは、そのように簡単に考えてよいのだろうか。
そういう疑問が湧いてくるのだ。
古来より、死はなぜ、いつも特別に厳粛であったのだろうか。時に恩讐をこえて
追悼された死も多くある。人々をして、どうして敬虔な気持にさせられるのだろうか。
それは生(世の中)からの完全の隔絶がなされるからだと思う。
つまり、人間は、死ぬ時はたった一人で、この世の中から別れるからだ。
どんな状況にあったとしても一人なのだ。だれも付いてきてはくれない。
また、多くの人に看取られようと、たった一人で死のうが、孤独の旅に出なければならない。だれも助けてくれないし、誰も助けられない、
人間が必ず通らなければならない宿命なのである。
僕たちが死に際にどんなに温かい情を表したとしても、生(世の中)にいる者の自己満足に過ぎないと思う。とくに、前述の講演の話は、生(世の中)にいる者の傲慢な偽善といってもよいかもしれない。なぜなら、あえて、わざわざ言葉にして言うべきものではないと思うからだ。
死を看取ることを、まるで受け売りにしている講演者に、死に逝く人の気持が、本当に分るのかと、あえて問いたいのだ。死に逝くことは、絶対に、死に逝く者にしか分らないのだと思う。
確かに、死にゆく者に、情を表すことで、他者からみて、僕たちは人間として、人道的な行いをすることが出来るかもしれない。
すなわち、死に逝くものに最大の愛情と敬意を払っていると、自らに言い聞かせることで、
生(世の中)で生きてゆく自らを、道徳的な正当性を持たせることができるだろう。
また善意な行為は、自分が良い事をしたという心の透き間を埋めて、
充実した満足感を得られるだろう。
しかし、死に逝くものにとっては、恐怖と孤独とかなしみ以外何があるだろう、
それを、埋めることなど誰もしてくれない。
では、死に逝くものを看取ることは、意味の無いことなのだろうか。
僕は、そこで立ち止まってしまう。
でも、やはり、僕は、死に逝くものを看取るだろう。
ただ、死に逝くものに、何もする事が出来ない無力な人間として、何もしてあげることの
出来ない人間として看取るだろう。
別離という、どうする事も出来ない現実に直視しながら、
そこでは、ただ沈黙だけしか出来ない僕は、やはり死に逝くものの生きてきた人生に
敬礼を捧げるだろう。
そうすることだけが、死に逝く者に対する、僕たちのあり方だろうと思う。