単独行者の手記
草野大悟

 山岳部だった。山は眺めるものではなく、征服するものだと教わった。そのころ使っていたピッケルやハーケンなどが、刑務所近くに建てたバリアフリーの我が家の壁に、今でもぶらさがっている。

 四季を通じて日本アルプスの岩壁を登っていた。大学院一年の春、鹿島槍で、友だちを亡くした。雪渓を滑落していく彼を、ただ見つめることしかできなかった。パーティを組むことが怖くなった。単独行しかできなくなった。死の責任は、自分一人が負えばいいから。

日本アルプスから帰る駅には、あなたが、いつも待っていてくれた。駅前の食堂で、ビールを飲みながらカツ丼を食い、一ヶ月分のあなたの話に耳を傾けることでぼくの山行は終るのだった。
 翌日には、実家の北方にあるふる里の山にふたりで登った。激しい運動の後のクールダウンにそれは似ていた。
 頂上近くに、墓地と白く輝く老健の大きな建物があるその山は、日本アルプスの山々に比べると、とても穏やかで、丘と呼んだ方がしっくりくる、そんな山だった。
 あなたは、緑色に輝く透明な光の中を、風のようにとびかい、昨日話そびれた思いをきらきらと話し、ぼくは、そんなあなたの息づかいと木々の匂いを胸いっぱいに吸い込んで、過酷だった山行の疲れを溶かしていた。

 そこには秘密が待っていた。いつものように、いつもの場所に。
そこに着くと、秘密は、お帰り、と微笑みながらぼくの腕の中に飛び込んできた。
ぼくは、ただ黙ってそんな秘密を抱きしめた。

 そのころから今日までずっと、その山は、凪の日の海のようにふたりを包んでくれている。
あなたとふたりで登ることは、もう、二度と出来なくなったけれど。

 


自由詩 単独行者の手記 Copyright 草野大悟 2010-07-25 23:27:48
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