海という洞窟
吉岡ペペロ

カワバタくん、ランチでもどう、

同僚のイガタアヤコがシンゴを誘う
いっしょに働いて10年以上になるのに話すようになったのはこのいちねんのことだ

飲み会で子育ての話になったときなぜかシンゴのことをみなが聞きたがった

これ言うと女の子はだいたいヒクんだけど、

シンゴはおむつの交換をしたこともこどもをお風呂にいれたこともない
入学式とかにもいっさいでたことがない

案のじょう同僚たちが無言で所在なさげになった
イガタアヤコが中ジョッキにはいった透明の酒をくいっと飲み背伸びのようなそぶりのあと口をひらいた
怒られるのかなと思ってシンゴは身構えたがそうではなかった

それわかる、

え、わかってくれんの、

帰り道同僚たちとつれだって歩きながら

カワバタくんともっとまえから話せてたらよかった、

そう言ってわりと真剣な顔をして地下鉄の階段をならんで下りた
まえからひとが上がってきたのでイガタアヤコのうしろに移った
上がってくるひととすれ違って、え?という感じでイガタアヤコがシンゴをさがした
シンゴがちいさく手をあげ微笑んだ

ランチでもどう、

おごれよ、

カレーのナンを振りながらイガタアヤコがこのまえテレビで見たイソギンチャクの話をはじめた
その直前アヤコがすっと背伸びのそぶりを見せたので面白い話が聞けるなと思った

敵に襲われたイソギンチャクが岩から剥がれその身をばたつかせながら海中を泳ぐように逃げたのだそうだ
ナンがイソギンチャクのものまねをしてシンゴのまえをなん往復もする
アヤコじしんも手をばたつかせてものまねをする

こわかったのかな、

うん、でもこころはチンパンジーからしか持ってないって言うしね、

そうだったの、

さいきんゾウにもこころがあるかもって言われてるんだけどね、

なんかありそうだな、

記憶とかもあるかも知れないんだって、

シンゴは、記憶かあ、と思った

記憶があるならこころもありそうだ、

あ、ヨシミのことを思い出していた
アヤコがまた背伸びのそぶりを見せた
なにかじぶんが感じたことを言うときいったん海上につきでる潜望鏡
そんなふうにアヤコの癖をシンゴは思っていた
でもアヤコにそれを言ったことはない

なるほど、記憶だ、記憶がこころなんだ、記憶ってこころだよ、

おっ、オレ、なんかヒントあたえちゃった?

職場にもどり事務作業をした
旅行会社の仕事ってのはなあ、新人のころよく先輩に言い聞かされていたことがシンゴの仕事の指針だった

日程の瞬間瞬間が納期なんだよ、これがお客さまとの約束なんだ、言い換えると、僕たちは納期がぜったいの仕事ってことなんだ、

この仕事は添乗員がなにも考えなくても98%はうまくゆく
いや、99.8%かも知れない
なにかが突発てきに起こったとしても優先順位が刻一刻とかわってゆくのでたいがいが収まるところに収まるのだ
でもシンゴはそういうのが嫌で会社から任されている部下にはじぶんのやり方を強要した

のこり2%こそが重要なんだよ、ここに手間ヒマかけるのが僕たちの仕事だよ、

日程のポイントにいくつもの代替えパターン、起こりうる事象をはりめぐらせる
A3の紙に書きだしてゆくと人口ピラミッドにもアミダクジにも似たフロー図ができあがる
本流のポイントを水色の蛍光ペンで塗りつぶす
代替えパターンは紫で、起こりうる事象はピンクで

来週から始まる上海ツアーの最終チェックをフロー図でしていた
ペンとゆびを鼻にあてていたらカレーの匂いがした
フロー図がなんだかさっきのイソギンチャクが海の底に貼付いているように見えてきて、また、ヨシミを思い出した

ヨシミならこんな感じの話、よろこんでくれるだろうな、

イガタアヤコに話そうとは思わなかった
潜望鏡のしたイガタアヤコは海のなかにいた
シンゴは海ではなくて洞窟にいるのだった
ヨシミという洞窟にはだれも入れたくなかった
ふっとじぶんは微生物のような気がした
そう思うとシンゴの洞窟は海に代わっていた
ヨシミが海?そんなことを思考しながらペンをくるっと回転させるとアヤコが背伸びのようなそぶりをして浮かんだ

アヤちゃんって、これから陸でもやっていこうかなって迷ってる、両生類の先祖かもな、

シンゴはゆびさきのどこからカレーの匂いがしているのかしばらくさがしながらそう言ってみようと思った







自由詩 海という洞窟 Copyright 吉岡ペペロ 2010-07-07 16:32:08
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