夫婦極道
salco

 ―落語家 三代目雲流亭祥月(出目金もとい)の草稿より―

 
 大門の手前で探るは懐具合と肚の裡。緋襦袢めくろか賭場で摩ろうか、
踵返して暖簾で正体無くそうか、それとも暫し。と四歩の間を行きつ戻り
つの父であったそう。
 運命のいたづらの何であるかも知らぬげに、そこへ通りがかった女学生
が母でありました。下谷のばあさんへ煮物届けた空鍋提げて、後れ毛さえ
も垢抜けぬ、頬のふくれた生娘だったとか。
 時は昭和六年、師走の宵の口。勇ましい夢を見て、世相もそろそろ殺気
立ってをりました。

チョットお嬢さん、実は困ってをるのです

どうなさいまして

 不案内な道に迷うて宿へ帰れぬのだと旅の男。

まあ、そのお家なら知っています
 
 軋る梯子段を騙し騙しで誘うたせんべい蒲団で、お前のように可憐な女
は見たことがないと男は云い、母はをんなにされました。
たがの外れた女郎より、ズロースもまばゆき乙女の安上がり。紅い花まで
散らして見せた不思議な勘定の釣り銭で、一杯やろうと踏む父でした。



 さらわれた先の座敷で地獄の祝言一場の始まり。逃げ損じ、今まさに気
絶に沈まんとする若造に、

ひとの娘を瑕物にしやがったからにはたまで払うか玉で返すか、どの道こい
つは無縁と思え

 先立った小指を返して祖父は云うたそう。その頃母は居室にて、少女の
友に泣き伏してをりました。
 新婦の名は世志江、新郎は川嶋徳三郎と申す与太者で、同心の柄がドス
で結んだ縁なれど、やはりそこはをんなとをとこ。睦み合うほどに馴れ合
うて、夫婦になって行きました。
 そうして幾年、ちり紙の始末の間に次々と出来たのが私ら七人の子ども
でございます、二人は早世してをります。

 父は子煩悩な人ではありましたが、指切り指を詰められて男が七くせ治
るものじゃなし、卒中で舅が死んだ霜月からは元の木阿弥。仕事もせず、
女郎と妾、酒に長半おいちょかぶ、見る見る家が傾ぎ出す。
 手代の次にはいつの間にやら軸も壺も着物も消え失せて、まるで竜虎の
如く夜な夜な吼え合い組み合うふた親を、私らは抱き合うて、恐ろしさと
哀れさに震えて見てをりましたよ。
 その度に百燭光が大きく揺れて、ふたりの影が伸びたり縮んだり。此方
唐紙、彼方障子でシーソー乗りのお化けのよう。
 そうして出て行った父が表の格子戸を叩きつける音で、鬢のほつれた母
は初めて目覚めたように泣くのでした。お母ちゃん泣いちゃ厭だと私らも
、初めて茶の間へ飛び出すのです。



何が子煩悩なものか、あの人は今にお前達の身上まで食い潰してしまうの
だから

 長姉から次兄までが学童疎開の前の晩、私らを集め、母は云うたのです
。そうして庭の片隅より掘り出した甕から家の権利書を抜き、二枚ぽっき
りの小さな金貨と一緒に託します。

御国が負ければ軍票なんざ当てにならないからね、お姉ちゃん
お兄ちゃん達も、これだけは肌身から離すのじゃない 
此処へ残した妹と弟の命とも思い守ってお呉れ

 尤も末っ子だもんですから、あたしはさっぱり憶えてをりません。大人
になって二人の姉と二人の兄から聞いた話です。
 憶えてをるのはぐっしょり濡れた母のせな。火生三昧大火焔、逃げ惑うちりぢり黒の人影、吹きつける緋色の風。
 その夜だそうです、父が忽然と消えたのは。どこぞのどぶ川で煮え死ん
だと聞きましたが、はて。
 憶えてをるのは大きな何かの倒る音、手を洗うている母の背。
きっとあれは別の晩でしたろう。風呂場で鋸挽く白い息、それとも寝ぼけ
まなこに見た怖い夢。闇と稲妻、竜虎と影のお化け、人でなしと鬼婆の夢
、血の匂い。点々と掘り返された庭の黒土、常滑の甕と父の生首。
 
 夢でしたろう。家も紅蓮に黒い骨を曝して消えたのですから。
やっとそこへバラックを建てたのが蝉のいない八月でしたか。寒くもない
のに身を寄せ合うて過ごした気が致します。
 苦労続きの母は九十一で天寿を全うしましたが、取り返しはつかぬまで
も、まづまづ仕合せな後半生ではありましたよ。
 酔っ払って帰ると寝ているあたしを抱き上げちゃ、父は優しく揺すりな
がら酒臭い息を盛んに吹きかけたものでした。

俺が悪いのじゃないんだよ なあ坊主、そうだろう? 
父ちゃんだけが悪いのじゃない、しがらみばかりはどうしょうもねえ

 あれも夢でしたろうか。滴が頬に落ちました。


         
大門…吉原大門


散文(批評随筆小説等) 夫婦極道 Copyright salco 2010-07-05 22:32:45
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