借りた詩集 天野 忠詩集
ふるる

最近、ライト・ヴァースや大野 新という詩人に興味があり、調べたりしたのですが、本が図書館にあまりないので、その二つの言葉でひっかかった天野 忠の詩集を借りました。

ところで、ライト・ヴァースって、今まで短歌界の言葉かと思っていたんです。口語短歌ということかと。有名なのは俵万智、加藤治郎、穂村弘で、だいたい1980年代に出てきています。でもその認識は違ってて、詩でもライト・ヴァースと言う分野があって、元はアメリカの軽めの詩(←すみません、違ってました。『現代詩手帖 特集ライト・ヴァース』1979年版 には、「イギリスの19世紀は(中略)そういう時代に同時に風俗詩としてライト・ヴァースが非常に盛んになる。」と書いてありました。)のことを言う言葉らしいです。
『アメリカのライト・ヴァース』(西原克政 著 出版 港の人)の説明には、「ライト・ヴァースとは何か。それは重厚な詩(ヘビー・ヴァース)にたいする風刺を含んだ異議申し立てである。詩にたいする高踏的な文学観が脱ぎ捨てた簡素な服の美しさに、ほのかな真実味をあたえることである。一人の平凡な人間としての詩人の、ことばの機知を恃(たの)みとする、日常の些細(ささい)な風景への軽やかな接近である。」とあって、これが一番的を射ている気がします。
ライト・ヴァースな詩を書く詩人は、ググってみると天野忠の他に、吉野弘や辻征夫などが出てきました。誰が分類してるのか。作者本人か。傾向は分かる感じがしますね。むつかしい言葉は使わない、分かりにくそうな比喩も使わない、割と短め、という。ところで何で私がライト・ヴァースに興味があるかと言いますと、「何を言ってるんだかマジ分からん」という詩、「まあなんとなーく分かるけど、全体が暗喩でよくわからん」という詩、の他に、「平易な言葉で、短く書いてあるけど、味わい深い」という詩の分野が確かにあるよねえ、と思ったからなんです。そう、なんていうか・・・俳句や短歌のちょっと長い版、みたいな感じ。そこには技術や深みというものが加えられていて・・・。(んーと、別に技術と深みがなくちゃダメだっていうわけじゃないんです。無理に書いてもしょうがないし・・・。)一つの分野としてライト・ヴァースはある、それを私は知らなかったんだな、というわけです。『アメリカのライト・ヴァース』の書評を新聞で見かけて初めてその言葉が詩にも使われるんだと知ったので。


さて借りてきたのは、
現代詩文庫『天野忠詩集』思想社、『古い動物』れんが書房新社、『万年』『掌の上の灰 日に一度のほっこり』『うぐいすの練習』
『耳たぶに吹く風』『春の帽子』全て編集工房ノア(最後の二冊はエッセイ集)

読みました。若い時から老年までの詩集のアンソロジーである『天野忠詩集』を読むと、若い頃は長くて、批判精神を覗かせる詩や割と皮肉っぽいのが多いのですが、だんだん、ライトに、日常に、なってきます。(表面上は)
この、短く、平坦な言葉で書かれた詩、見事というほかはありません。無駄がない。昔の詩が無駄があるわけではないのですが、なんだろ、年取って、必要なのはお茶碗一つだけになった、みたいに、色々言わなくてすむようになっちゃった、とでも言いましょうか。表面はあっさりだけど、老いを扱ってる分、いくらか重い。ライトなのにヘビー。このバランス。いや〜色々いますね、よい詩人が・・・。
一つ載せましょう。



「かくれんぼ」


百までかぞえないうちに
みんな
消えてしまった。
どこへ隠れたのか
私は知っている。

けれど
私は探しにいかないから
隠れた人は
いつまでたっても出てこない。

もう直き
私もそこへ隠れるだろう。
誰も探しに来る筈のない
私の行ったことのないところへ。



(『万年』より)

うーん、上手い。百までかぞえないうちにって、かくれんぼの鬼が数を数えるやつでなくて、年齢のことだったんですね。
こうして読むと、かくれんぼって隠れてる方は死後の世界なのかなあって思います。探してくれないと、いないも同然、死んだも同然。見つかるドキドキと、見つけてもらえないドキドキ、両方ありますね。
こういうのがライト・ヴァースだとすると、同じ平易な短い詩でも、なんか「ずばり度」が少ない、っていうのは多い気がします。どこまで読んでも「ふにゃ」としてるというか(私の詩もね・・・)。それはそれで「ふにゃ・ヴァース」とでも名づけておきたいところではあります。
ハードもライトもふにゃも、いいなと思うポイントは、なんだろ、言葉と自分との距離感なのかな。

さて、私が最近すごいいいと思って、何度も読んでいる詩人の大野 新氏は天野氏が大好きだったらしく、『天野忠詩集』には、大野氏が寄せた「楽屋噺」(詩集『重たい手』の解説)としてこんな文章が。
「(前略)というようなフレイズを読むと、わが身の荒廃のなかにはない、もっと純潔な、きれいなからだをもっているひとの旋律だという嘆賞がついてまわるのである。何度も手術したからだでは書けねえや、というような妙なこだわりをもちながら、いわばスターを仰ぐように、この美しい死者の移行を楽しんでいた。」「『動物園の珍しい動物』の出現に、詩壇は驚愕すべきであった。三島由紀夫だけがひそかな驚愕者で(中略)なんらかの異変を期待したが、三島由紀夫の自刃でおわった。」
天野氏は長く詩を書いて、詩集も色々出していますが、初めて受賞したのは、田村隆一や山本太郎が選考の「無限賞」(詩の賞?)で、六十五歳の時だったとか。やっと詩壇が驚愕したってことか。遅い!しかし、H氏賞は、黒田三郎の『ひとりの女に』や吉岡実の『僧侶』との接戦だったというから、どっちもすごいから、まあ仕方ない。っていうか、大野氏もすんごくいいので、是非詩壇は詩集『家』のH氏賞だけでなく、もう一度くらい驚愕していただきたい。
その後、天野氏はよい出版者にめぐり合い、(『編集工房ノア』の沢順平)八十三歳で亡くなるまで、詩やエッセイを書き続けています。遺稿集も二冊もある。
晩年の詩は、短い分テクニカルでありトリッキーでありアイロニーもあるのですが、あまりにもさらっさらなので、そういう感じがしない。老いるってこういうことなのか。と素直に思う。思うし、アンチエイジングとか、ありえないし。と思う。普通に老いて行け、まあこんなもん。って言われてる気がする。

好きなのを載せます。


「老衰」


十二月二十八日正午一寸前。
生まれて初めて
へた、へた、へた、と
私は大地にへたばった。
両手をついて
足の膝から下が消えて行くのを見た。
七十八歳の年の暮れ。
スキップして遊んでいる子供がチラとこちらを見た。
走って行った家から人が出てきて
大地にしがみついている私を
抱き起こした。
「どうしました」
冷静に
私は答えた。
「足が逃げました」



(遺稿詩集『うぐいすの練習』より)


まさに、「一人の平凡な人間としての詩人の、ことばの機知を恃(たの)みとする、日常の些細(ささい)な風景への軽やかな接近である。」ですね。軽やかな七十八歳を見せてもらいました。
エッセイの方も、面白いです。孫が英語で「おじいちゃんハズ メニイ ヘア ナントカ」というので、息子に翻訳してもらったら、「おじいちゃんの頭は、沢山の髪の毛が除去されている」ということだと。大学で英語教えてるのにもっとマシな翻訳はないのか。と心中で息子を叱ったり。(こちらは『春の帽子』の「ホンヤク」)奥さんとの仲むつまじい様子も伺えます。




散文(批評随筆小説等) 借りた詩集 天野 忠詩集 Copyright ふるる 2010-07-03 00:05:40
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