窓際
はるな


彼女とは窓際でしりあった。
気づいたときには(とわたしには思える)、なんとなく連帯感のようなものを持っていた。友人と呼ぶには頼りなく、知り合いと呼ぶには強すぎる。連帯感。

彼女は同級生の多くがそうするようにマスカラで武装してもいなかったし、腿をさらけ出すほどスカートをまくりあげてもいなかった。でもよく見ると、顔立ちは整っていて美しいと呼べるほどだったし、身体はしなやかで均整がとれていた。ほんの少し痩せすぎのきらいはあったけれど。
わたしたちはよく、身の回りの人間のことをそれとなく罵った。愚鈍な教師や、軽薄な同級生や、無知なボーイフレンドたちのこと。「なにもわかってない」というのが、わたしと彼女のあいだでの最高の(最低の?)罵倒だった。
「なにもわかってない」。
わたしたちはいつも、「なにか」を「わかられ」たくなんてなかったのに。

学校のなかで、わたしたちは、何となくいつも居場所がなかった。
教室は、清潔だったけれど暗かったし、保健室は、清潔すぎるし明るすぎた。お互い部活には所属していなかったので行くべき部室もなかったし、新設されたカウンセリングルームはなんだか甘いにおいがしていやだった。上履きから、緑色のぺっかりしたスリッパに履き替えなければいけないのも、カウンセリングルームの気に食わない点のひとつだった。
学校のなかでだけではなくて、街にも、家にも、なんとなく居場所はなかった。わたしたちは、でも、うすうす知っていた。拒絶されているのは自分たちのほうではなくて、自分たちが、自分のいる場所をいつも拒絶していたことを。だからどこにいても、そこではない場所をいつも求めていたし、求めているような場所が見つかることも期待していなかった。そしていつも窓際にいた。吸い寄せられるように。
十分間の休みで、窓の外をながめて、すこししゃべった。窓からは、移動教室を急ぐ生徒たちのシャツやブレザーが見えた。わたしたちの教室は三階にあったので、人々の頭はとてもちいさくみえた。その頭のなかに、ひとつひとつ別の思想があって、理想があって、願望があって、絶望があるのだと考えると、わたしたちはぞっとして、言葉をなくした。そして、しばらくたって、「でもなにもわかってないよね」と言って、チャイムを聞くのだった。

彼女とわたしは、クラスメイトだったことはいちどもない。
だから、彼女がクラスのなかでどのように過ごしていたのかはよくしらない。それでも、わたしのそれよりは随分まともだったはずだ。
わたしはいじめを受けてはいなかった。大小のかげ口はあったけれど、そんなのわたしに限ったことではない。成績がひどく良かったわけでも、悪かったわけでもない。何もなかった。わたしが、わたしのクラスを拒絶するさしあたっての理由は、いつでもとくにみつからなかった。それがますますわたしを悪くさせた。
一人ひとりの人間となら、わたしはふつうにしゃべることができた。冗談も、はやりについても、理不尽な教師の愚痴についても、(わたしがおもっている限りは)ふつうにしゃべることができた。三人になっても、まあ、できた。でも四人になるともうだめだった。
自分のまえにはうすい、限りなく透明にちかい、それでも断固とした壁が−それは物質的に−存在して、自分以外の人間の発する言葉を理解しづらくしていた。聞き返せば自分のことばはそのうすい壁にあたり、半分ほどが自分にかえってきた。無力感。通じていない、とおもった。わたしはすぐに、格闘するのをやめた。そして窓際へいくようになった。
はじめ、窓を、あけるためにわたしは窓際へ移動したのだった。窓をあけ、空気をいれかえるために。あるいはそれを吸いこむために。窓際は彼女としたしくなる前から、なにか重要な意味をもった場所だった。救われるような、認められるような。あるいは接点のような。何との接点なのかはわからないまま。

わたしが腕を千切りにしている頃は、それでも状況はまだそんなには悪くなかった。窓際にいればわたしは彼女と話ができたし、彼女にとってもそれは同様の意味を持つように思えた。チャイムが鳴れば教室に戻ることができたし、教室にいるあいだは授業を聞いていればよかった。授業を聞くときには壁は現れなかったから、つらくはなかった。
彼女はしなやかな体をもっていたし、お互いの目をみて話すこともできた。わたしも彼女も昼休みには、別々の場所でお弁当を食べることもできた。―食べることができた。
わたしたちは明らかに何らかの問題(障害といっていいくらいの)を持っていたけれど、その問題の程度は、誰もがもっているくらいのものにおもえた。16歳の、高校生の、女の子ならだれもがもっている程度の問題。実際にそれはそうだった。でも状況は少しずつ悪くなった。わたしたちの誰もそれに気がつかなかった。16歳は、状況を判断するには、すこし幼すぎた。手放しで誰かに泣きつくには、プライドが育ってしまっていた。

いまになって、そのことがすこしわかる。わかるというのは、状況を理解できる、という意味でだ。そのころの心持ちを、自分のであったはずの心もちを、もうわたしは思い出すことができない。自分がそのように打ちひしがれていたことを。そのことはすでに悲しいことですらない。ただ、なんて遠くへ来てしまったんだろう、と思う。
なんて遠くへ、自分でもそれときづかないうちに。


散文(批評随筆小説等) 窓際 Copyright はるな 2010-07-01 03:34:54
notebook Home 戻る  過去 未来