森の猫

「ほら、パパもこっちへおいで。翔ちゃんこんなことできるもんね〜」
 片言をようやく脱した翔は、生意気なことばを言いながら動き回っている。
ここ2、3日で急に寒波が来て今にも雨からみぞれに変わりそうな寒い夕暮れだ。週末の夕方にもかかわらず乗換駅でもない都会のど真ん中のプラットホームは人もまばらだった。少し前に渋谷方面行きの電車が発車したばかりだ。

 朱実は今日もエステスクールで先生に怒られ少し気分が沈んでいた。いじけて傘の雫をくるくる回してうつむいていると元気な子供の様子が気にかかった。

 「翔、その黄色いボチボチから出たらバイバイだからな。」
 穴あきジーンズを自然に着こなした翔の父親らしき声がする。朱実がそちらに目をやると翔くんと呼ばれるパパとママは駅看板の陰で風をよけて腰から下しか見えない。
 「翔、走っちゃダメよ」上等なウールのロングコートにロングブーツの母親も声だけで注意する。が、その場所から離れようとはしない。翔の動きはとどまるところを知らず、雨でビショビショになったホームを今にも転びそうに飛びまわっている、広そうで狭いプラットホームだ。

何故注意だけして、翔くんを追って手をつないであげないんだろう?四十路の朱実は不思議でならない。自分の子供たちもこういう場所では手はいつもつないでいるものだと思い育ててきた。
 「ショーちゃ〜んこっちよ〜」その言葉に翔は身を翻し、声のするほうへ走った。
 その時、渋谷行きの電車が入ってきた。一瞬のうちに、翔のちいさな体はその中に吸い込まれていった。

 呼んだのは翔のママではなかった。違うショーちゃんのママだ。本物の翔のママとパパは急停車した電車を我ことではないかのようにつったって見ていた。

 お母さん、その手を離さないで・・・


散文(批評随筆小説等)Copyright 森の猫 2010-05-19 04:36:50
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