馬喰町のひと
恋月 ぴの

忘れてはならないものらしい
愛した男の名前と
その男を奪った女の名前
そして事の顛末一切合切と発せられた言葉の一字一句まで

こんな近くに勤めているとは思わなかった

東神田の交差点を右折し清洲橋通りをそぞろ歩けば馬喰町の交差点
扱っているのは紳士服だと勘違いしてたけど
あのエトワール海渡の建物が幾つも建ち並んでいて
いずこも同じで商いになるのは婦人服ってことなのだろう

そして何れかの建物のなかで彼女は働いている
気位の高さから売り場でってことは考えられなくて
親族のつてで入社したのなら経理とか事務方なのかな

そういえば彼女、パソコン得意だった気がする

夏の日差しと言うには頼りなさもあり
いまどきの紫外線は強いからと差した日傘も手持ち無沙汰で
ほつれかかったスカートの裾裏が気にかかる

彼女が和夫さんと離婚したこと
クラスメートのなかで知らなかったのは私だけだったようで
再就職できたことを自分のことのように喜んでくれた友人がうっかり口を滑らせた

溺愛していたお嬢さんの親権を和夫さん側に取られてしまったとか
今は実家のある洗足近くのマンションにひとりで住んでいて
勤め先のある馬喰町まで通いはじめたらしいとか

当然にして口を滑らせた友人に罪は無くて
問い詰めた私のしつこさに根負けしただけのこと

この歳になれば生足ってわけにはいかないし
衣替えになるまで制服の替えって支給されないのかな

あれは梅雨明けの暑い昼下がりだった

1週間程度の出張になるって話だったけどピアス忘れたからと立ち寄った彼の部屋
合鍵で開けた玄関に大きなリボンで飾られた黒いパンプス揃えて脱いであった

聞き覚えある女のひとの甘えた声に部屋の奥覗いてみれば
産まれたままの姿でもつれ合うふたりの姿

私に気付き母親に咎められた子供みたいに腰を引こうとする男の顔と
この期に及んでも奪った男を放すまいとして腰をうねらす女の上気した顔

何を話したのだろうか
萎えた股間を枕で隠しベッドの上で正座した男ひとり蚊帳の外
女ふたり夜更けまで膝を交え話し合ったこと

その一字一句をそらで語れるとしても私の失ったものは戻ってはこないのだから

見上げると居抜きで持ち主が変わったばかりなのか
真新しい建物表示の脇に取ってつけたように表示された旧建物名

確実に季節は移ろいでいて
たったひとりの女の心うちにあってさえも不変と名指しされるものを持て余し

夏服の色合いは薄水色であって欲しいとビルの谷間の草いきれにあえぐ






自由詩 馬喰町のひと Copyright 恋月 ぴの 2010-05-17 20:43:22
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