JOY
ホロウ・シカエルボク





クリスタルガラスの煌めきの向こうで二五時の世界が崩れ落ちてゆく、お前はなにを見ていたんだい、手を伸ばせば届く距離でかすかにも触れられない何かが俺たちの間にはあった…水槽のエンゼルフィッシュは空気を求めて喘いでいた、チャコール・グレイに満ちた部屋の中で…コルトレーンが青い列車の中で狂気をロデオしている、俺は煙草の煙を吐き…それがどこへ逃げていこうとしているのだろうと考える、それはまるで意味のない生のように赤茶けた天井へと吸い込まれ…誰かがクスリで馬鹿やって反省しているってテレビでは喋っている、人の声があることは多少ありがたいと思う気もするが…だけど根本的に、俺は自分以外の人間を邪魔だと考えてしまう節があるのだ…少し迷いながら、だけどそれはたいした間ではなく、俺はリモコンを手に取りもはやアンティークに近いテレビの電源をオフにする、至極控え目な舌打ちのような音が一度だけ聞こえて―部屋の中は暗くなる、手ごろな夢や楽しげな幻想はもうひとかけらもこの空間の中に雪崩込んでくることはない…ただコルトレーンが青い列車の中で狂気をロデオしている
お前の胸の中にどのような思いが去来しているのか俺には知る由もない、そういったことを上手くやるコツをずいぶん昔に失くしてしまった、細長い煙草を指先の数ミリの動きだけで吸い続けているお前はまるで、この世でもっとも地味な苦行を選択した野蛮な神を信仰する信者のようだ―その煙草の煙は俺のものより僅かに白く…シンプルだが気高い、お前の在り方はまるで、ミシシッピの河岸に置き去られた懐かしいポップスみたいで…くちずさんでおくれよ、くちずさんでみろよ―コルトレーンじゃこの部屋に充満する居心地の悪い何かを変えることは出来ないさ―俺はお前が鳥になってしまったのではないかと考えて恐怖する、お前の佇まいはまるで飛べなくなった鳥のように過去を飛び、止まり木を探している…どこに行けるっていうんだ、ハニー、そこからどこへ行けるっていうんだい、立ち止まった場所ではどこにも辿りつくことは出来ないぜ…俺はそう言ってみたい、確実にお前の脳に入り込むくらい、耳元に口を近づけて…だけど俺にはそれをするだけの情熱がない…そんなものはもう、俺の中では一種のレトリックに過ぎない、そうだ、いつもそんな感じだった―思いはある、だが、手段がない―俺はいつもそんなシチュエーションの中で自分がどんな断層へ落ちていこうとしているのか、それを見極めようとし続けていたのだ
ベニヤ板みたいな壁の向こう側で誰かが泣いている…若い女のようだ、そいつの顔は見たことがない…俺が起きている時間には彼女は寝ているのだ―しかし今日は起きていて、さめざめと泣いている―俺はふと、彼女はもしかしたら俺の代わりに泣いているのだという考えに捕われる、本当はいま隣室には誰も居なくて、そこに行き場のない俺の魂が逃げ込み、女のような声で泣いているのだ、女のように―そんな歌がだいぶ前にあったような気がするな―俺はその声に耳を澄ます、それはますます俺の声であるような気がしてくる、俺はその声のことを可哀そうだと思う、それが俺の声であって欲しいと思っているのかどうかは、俺自身にはよく判らない…俺は煙草を消して音を立てないように頭を壁にもたせ、その声をよく聞こうとする、お前はまるで変わらない調子で煙草を吸い続けている…泣声を聞きながら天井を見つめていると、いま、この場所で、本当に存在してるのは誰なんだろうという気がしてくる、それについてはっきりと答えることが出来るやつが、この部屋か、もしくは隣室に、ひとりぐらいは居るのだろうか―?ああ、混乱って静かだ…本当はすでにお前は出て行ってしまっていて、俺の中に住んでいるお前だけがここで煙草を吹かしているのではないだろうか?いまお前をこの部屋に置き去りにして、隣室のドアをノックしたら、涙で目を腫らした若い女が鼻を啜りながらドアを少しだけ開けたりするだろうか…?
クリスタルガラスの向こうで二五時の世界が静かに崩れ落ちて、粉塵が舞って…それがなくなるとあとにはなくなったったという静寂だけが残る、ないという感じだけがそこにある、それは伝わり方を間違ったジョークみたいに思える―受け止めたものの処理をしあぐねて天井を見続けている、灰皿で燻っていた煙草が最後に吐いた煙が、誰かの未練を語るみたいに電燈の脇で大きくカーブして、それから薄れてゆく。





自由詩 JOY Copyright ホロウ・シカエルボク 2010-05-13 22:36:33
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