明方、その暗がりに
ホロウ・シカエルボク





鈍い目眩とともに
やって来る歪な影
暗い夜明けのように
淀んだ白夜のように
めくれた上皮みたいな気分が
敷布の中から身体を捕らえて
煮物が駄目になるときのような一秒が
目玉をくり抜くみたいに過ぎる
両親、その阿呆みたいな理念と
余計な部位のような兄弟
去れるものなら去れよ
似た血がそこにあるというだけのことで
それを繋がりだなどとオレは呼びはしない
安普請の空間を駆け抜けてゆくあどけない羽の小蠅
蛍光灯の白色の密度を掻き回して
自我を見失うみたいに時計が歪む
ああ、まるでおざなりなパラレルワールド
右目だけが現世に取り残されてる
ヒトの言葉を話す鳥を連れてきて
世界は入れ替わったのだと執拗に教えてくれ
歪んだ文字盤の時間を読んだが
それが何時ぐらいなのかは一向に判らなかった
判らないことの向こうに真実があるのだ
それはいまに始まったことじゃなかった
画鋲の隠れた水を放つ
洗面台で果てしなく顔に水を当てろ
いつだって痛みが無くっちゃ
人は正気になんかなれないもの
そしてそれは
比較的まともなひとつの側面、としか
言い切れない程度の正気だ
オレはそれを理解している、だからオレは至極まとも
オレはそれを理解している、だからオレは至極まともだ
朝焼けで変色したカーテンを開くと
爪の先が少し火傷をする
鼓動の末端の痛み
鼓動の末端の痛みだ
そんなものに生命を学ぶほど愚かではないが
知るにこしたことはないという気がしたのは確かだ
オレは洗面台にいた
そこで血を流していた
頬についた傷はちょっと酷かった
濡れたタオルでキレイにしてから止血クリームを塗り
分厚いガーゼのついた絆創膏を貼った
巧く出来るときはこんなこと絶対に起こらないのに
昨日ここに居たオレと
今日ここに居たオレとじゃどれだけのことが違ったのだろう
飛びすぎた小蠅が窓ガラスで燃えた
オレは窓ガラスにバケツで水をかけた
おかげで部屋の中はちょっとしたスチームの嵐
オレは忌々しい思いをしたが
渇いて痛んでいた
喉はだいぶん具合が良くなった
これのせいかもしれないとオレは思った
返信のように絆創膏の下が疼いた
蟻にまみれたバスケットの中から
昨日買ってきていたパンを取り出した
トースターに放り込んでコーヒーを入れた
一枚目は失敗した
二枚目はちゃんと焼けた
コーヒーはいつでもこの上なく美味かった
それが自分の人生に贈られたささやかな一日の保証
いつものようにオレは少し満足した
差し引きゼロとはいかないがまずまずの気分だ
白いシャツには赤い付け爪が沢山こびりついていて…と、思ったら本物の爪だった
以前そのシャツを着たときに
何があったのか少しも思い出せなかった
長い時間をかけて爪をすべて払った
手のひらに短い切り傷が出来た
痛みのリズム
幾つかの傷が別々の鼓動で痛む
そのすべてのビートの隙間を縫いながら
オレは新しい詩をノートに殴り書きする
窓で蒸発した蠅
部屋中にあふれるスチーム、そこまで書いて
オレは窓を開けることを思いつく、窓はもうすっかり落ち着いている
外は気持ちよく晴れている、目の前の電柱に
首吊り死体がぶら下がっていることを除けばなにも問題などない
(どうして他人の部屋の正面で首など吊ったり出来るのだろう?)
死体はまだ温もりすら感じられそうなほど新しくて
ビクンビクンと四肢がやたらに跳ねていた
アイドル歌手みたいな可愛らしさが限界を感じさせる
確かにある種の哀しみを先天的に抱えたタイプの女だった
垂れ流した糞便が淡い黄色のミニスカートをおぞましい色に変えて
あたりにはそれの臭いと
おそらくは死臭というものだろう、もうどうしようもない、と
空気に書いてあるみたいな臭いが致命的に染み着いていた
オレはため息をついて窓を閉めた
死体は真っ直ぐにこちらを見つめていたのだ
警察が来たら知らなかったと証言しよう
さいわい周りの奴らはまだ起きてなかったみたいだし
(もしかしたらオレと同じようにだんまり決め込むつもりかもしれないけれど)
オレはスーツを着ると仕事に出掛けた
玄関に鍵を掛けたとき
サイレンがこちらに向かってくるのが聞こえた






自由詩 明方、その暗がりに Copyright ホロウ・シカエルボク 2010-05-06 22:17:17
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