薄暮
within

 青い顔をした老人は路地裏を杖をついて歩いていた。どこからか漏れてきた白い蒸気が路地全体を雨上がりの草叢のように湿らせている。
 白と茶のまだら猫が前を駆け抜けていった。人の気配はない。この辺りにも、以前はひと気があったのに随分さびれてしまった。曇り空を見上げると、のしかかってきた鈍色の運命の重さに背骨を潰されそうになった。
 部屋に戻ると暗くなった部屋が自動灯で白く照らし出された。今の蛍光灯はあまりにも明るすぎた。もっと温かみのある電熱灯のようなやさしい暖色のものに変えてもらおうか。この白に照らされると余計に疲れる。安らぎたいのに、体力を奪われてゆく気がする。
 コンピュータの前に座り、マウスに触れるとモニタの電源がともり、明るい声でメイドが迎えてくれた。
「おかえりなさいませ。今日の夕食は何にいたしましょう? 」
彼はあまり空腹ではなかった。何かしらが胃に潜んでいて、停留しているような、そんな重さを感じていた。
「あまり重くない、消化のよい、和食がいい」
とだけ伝えると、モニタにメニューが三次元の像として現れた。ほうれんそうのおひたし、湯豆腐、空豆の甘辛煮、白菜とえのきの味噌汁、高菜の漬物。
「いかがでしょうか? 」
若い女の声のメイドが言う。老人は眉を動かすこともなく
「それでいい」
 と答え、席を立ち、風呂場へ向かった。部屋の中は田舎の一隅に住んでいるような静けさを保っていた。ただエアコンの吐く風の音だけは消しがたいらしく、給風口から微かに震えるような音が、部屋全体に聞こえていた。
 風呂の脱衣場に設置されているリモコンを押し、湯の温度をぬるめの三十八度に設定し「給湯OK」の表示が出るまで、数秒待ち、蛇口をひねった。
 湯を入れる間、彼はホームヘルパーが裾分けに持ってきたハッサクを風呂上りに食べようと、冷蔵庫からひとつ取り出し、包丁を入れた。ハッサクの皮から飛沫が飛び、彼の鼻に柑橘の柔らかな匂いが届いた。空腹であるがゆえに一口つまんでみようかと思ったが、彼は耐えた。耐える必要はなかったのだが、若かった頃からの習慣というか、耐え忍ぶことが必要とされた彼の通過してきた時間が、彼に染み付いていた。
 そうして切り分けたハッサクを皿に盛り、テーブルの上に置いた。もう長くない。しかし明日突然終わることなどということは考えにくかった。定期の訪問看護によるメディカルチェックでもB+の判定を受けていた。血管も内臓も彼の年齢からすれば、比較的、優秀な肉体を保持していた。同じ年齢でも、すでに幹細胞培養による器官移植を受けている者が多数を占めているなかで、経済的余裕もなかったが、彼は原身体で生き続けていた。
 メイドの声がした。
「そろそろお湯が入りました」
 耳ざわりの良い彼女の声は、彼の思い出のなかから抽出されたものだった。
 彼は床に手をつき、テーブルの上によりかかりながら立ち上がると、壁に伝わされた手すりを頼りに、風呂の湯を確かめに向かった。足元に猫がすり寄ってきた。スーパーに貼り紙されていた里親募集に電話して、気まぐれにゆずり受けたのだった。
 服を脱ぐと、脇に置かれた洗濯機の中に、汚れた下着を放り込んだ。湯に浸かり、顔を拭うと、一日の塵埃が拭い去られていく思いがした。風呂場の外で猫が鳴いた。ぼやけた目がじんわりとはっきりしてきて湯気が疲弊した細胞を静めてくれた。この瞬間は、まだ若かった頃とあまり変わらない。張りを失った皮膚が柔らかくのびるようになったが、張り巡らされた神経はいまだ清新さを欠いてはいなかった。
 若干、乾いた口腔が潤いを求めていた。炊事場におかれたハッサクの瑞々しさを想像すると余計に口腔が乾いていくようだった。
 不意に、玄関のチャイムが鳴った。彼は急いで風呂からあがった。無造作に身体の露を拭い、シャツとズボンだけを履いた。
 扉を開けると、外には、こぎれいな制服姿の男が立っていた。男はまだ若い、おそらく三十代の理知的な面相をしていた。
「今日のお夕食をお持ちしました」
男はプラスチックの箱を持っていた。中身は今晩の夕げ。受け取ると、彼は「神のご加護があらんことを」と言って立ち去った。老人はまだぬくもりの残っているパッケージを持って、扉を閉めた。中途半端な入浴だったせいで、どこかすっきりしなかった。気を張らないと、気化熱に生気を持っていかれそうだった。
 テーブルに温めた低脂肪乳と今日の宅配の食事とハッサクを並べた。猫が近寄ってきた。キャットフードを器に盛ると、猫は黙って顔を埋めた。
 食事はどれも満足のいくものだったが、老人用だったので少し塩気が足りなかった。少しだけ醤油を足した。猫は餌を食べ終わると、彼の方にすり寄ってきた。
「もう食べたならおとなしくしてなさい」
 と話しかけても、猫は啼くばかりで、何かを彼に求めているようだった。
「何だい」
 と彼は箸を休め、猫を懐に抱き寄せた。温もりのある身体とつやのある毛並みが彼の寂しさに、ほのかな灯火を与えた。
 そのとき、メイドの声がした。
「メッセージを受け取りました。映子、件名、お元気ですか、です」
 彼は猫を抱えたまま、メールに目を通した。
「こんばんは、映子です。お元気ですか? 今度の週末に伺いたいとおもうのですが、何かいるものがあったらお返事ください」
 彼はメールを閉じると、再び食事を済まそうと、箸を取った。
 映子とは詩の朗読会で知り合った。彼はときたま孤独を忘れるために詩を書いた。彼よりも彼女は遙かに若かったが、どこかしら通じるものがあったのだろうか、どちらかといえば彼は人見知りをするほうだったが、彼女は彼の心の躊躇を気にせずに、ぐいぐいと近付いてきた。彼女も詩を書く人間であったが、彼と詩についての話は全くせず、まるで古女房のように、時折、彼のアパートを訪ねてきては、あれこれと片付けやら食事やらの世話をしてくれた。だからといって、彼に対しての好意は、恋愛感情といったものではなく、年老いた父親の介護をするような態度だった。

彼は落ち着かず、アパートの前に出て、煙草をくゆらせていた。何時に訊ねるという細かいことは書いてなかったし、通例、映子は唐突に訪れることが多かったため、細かい神経の彼にとっては、待ち時間を落ち着いて過ごすことができなかった。
今日は日が高い。真昼であったが、この路地を通る者はいなかった。
 彼はアパートの鍵を開けたまま、路地を抜け、大きな通りへ出た。自動販売機でダイエットコーラを買い、時計を見た。まだこんな時間か、と彼は途方に暮れ、押しつぶされそうになったが、きっとこの時間帯ならと思い、歩を進めた。
 民家と自転車屋の前を抜け、少し広がりのある公園に隣接して図書館があった。図書館の中には、パーソナルスペースがいくつか設けられていた。
 彼は利用カードを差込み、その一席に座った。パスワードを要求されたので、八桁の番号をマイクに向かって暗唱した。すると図書館司書の声がした。彼はおもむろにデータベースにアクセスした。しかし、その文献は「調整中」になっていた。彼は肩を落とし、ため息をひとつ吐いた。
 いつになったら拝むことができるのか……と彼は席を立った。貸し出し口にいる職員の女に近付いた。
「症例Kのカルテはいつ閲覧できるのかな? 」
と女に訊いた。女は眼鏡の奥の眼を動かさずに
「あれは病院関係者によって毎日更新されているので、アクセス権限が一般ユーザーの閲覧は難しいですね」
「ずっと予約しているのに」
と食い下がったが、女が「すみません」と頭を下げるので彼は諦めた。
 図書館から出ると、しっとりとした空気が彼の萎えた心を湿らせた。この空白に光があれば、まばゆい光があればと希求したが、その願いは虚しく道の上で轢かれるだけだった。
 途中、男の子が駆け寄ってきた。笑っていた。その幼さに彼は何も心が動かなかったが、彼は口角を上げる努力をした。何もそんなことをする必要はないのに、彼を動かすいびつな臓物があった。すると、男の子は表情をなくし、いぶかるような目つきをしたかと思うと、興味を失った猫のように、くるりと向き直り、とぼとぼと彼が進む方向と逆の方へと歩き出した。彼はかすかに動揺したが、己のうちに希釈させ、自分の住処へと帰路を辿った。きっと訪れるであろう倦怠になすがままだった。鳥が啼くように歌いたいと思った。しかし彼の声帯は長年の澱で随分とやつれていた。自分の叫んでいる姿だけが頭に浮かんだ。私にはまだ歌いたいものがある。そう思いながら、彼はアパートの扉を開けた。
「おかえりなさい! 」
映子の笑顔が、なんの躊躇いもなく、彼の目に飛び込んできた。


散文(批評随筆小説等) 薄暮 Copyright within 2010-05-06 04:12:06
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