無自覚
榊 慧

無理しないでやってける人はそれを無理してやってくしかない人に気づかないからね、仕方ないんだよ、とさとしがぼくに言う。さとしは林檎酢を五倍に薄めている。ぼくは俯いた。俺は無理してやってる人にも気づかれないしね、とさとしは少しだけ言いかけた。が、薄めた林檎酢を飲んですぐにやめた。無意味だ。さとしは林檎酢の入ったグラスを僅かに揺らす。

眠いなあと課題を放棄してしまっていて自己嫌悪にも陥ったが今更なあとぐずぐずしている。眠い。ずっと寝ていられるなら、と考える。ずっと寝ていられるなら。ずっと眠っていられるなら。それだったら今すぐに眠りたい。つまり死にたいのか、と考えてパソコンを打つ。無意味に。俺にはあまり言葉がないから人に話すのは得意じゃない、だからやなんだよと言えたらどんなにか、違う、俺は干渉とかそういうの、されすぎてきただけなんだろうな、うん、どうでもいいや。…寝たいんだけど。

全ての会話を放棄して文章でコミュニケーションを終えられればな。俺は蜂蜜を舐めた。河合が体育座りで俯いている。無意味だねと言ったらショックを受けるだろうか。それとも気づきすらしないだろうか。これ以上構ってやるほど俺は甘い人間じゃないんだよ。うっすら笑っているかもしれない、河合はお酢が嫌いなんだっけかと記憶をたどり、牛乳をあたためる。俺はただ面倒なだけでやってるんだよなあと呟いてみた。

さとしは林檎酢を飲みながらパソコンを打っていたけどはあ、と小さく息を吐いて立ち上がった。さとし、課題は終わったのかな。さとしの眠たそうな顔をチラッと見る。小さな鍋で牛乳をあたためているみたいだ。ぼくは自分のひざを見た。さとしのひざには怪我の痕がいくつか重なって残っていて、それに比べたら自分のひざは綺麗だなとぼんやり思う。

河合の目線は下げられつつも、俺を意識していることがありありと分かって俺は思わず笑ってしまう。は、いるよなあこういう奴。はは。あたためた牛乳を陶器のコップに入れ、机に置く。これを河合が手にとったら。手にとって飲んだら河合は「そういう奴」だと断定できそうな気がした。俺が飲むために自分であたためただけであるということを判断の選択にすら入れてないということだろうか、と。黙っていようと思う。座ろうとしたとき、あ、

かたん。さとしがあたためたぼくの分の牛乳を机に置く。とりあえず目線は下げたまま、そのコップを手にとる。指がコップを熱いと判断、熱いよさとし、持てないよ。まだ目線は下げておこうか、もう上げてもいいかなと少し悩んでいると、さとしがまるで耐えきれなかったみたいに言った。「……それ俺の分だよ」さとしの表情の中で、初めて見る顔だった。






散文(批評随筆小説等) 無自覚 Copyright 榊 慧 2010-05-05 00:39:36
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