FREE HUGS・Ⅲ
高梁サトル

【7.25 晴れ】

am7:00 起床。
よく眠れたおかげで体が軽い。
共同サロンで朝食のヨーグルトに蜂蜜を入れてかき混ぜながらル・モンドを広げていると、昨日の学生グループが揃ってやってきた。
パリ郊外の探索に誘われたが、当初の予定通り1人で行動することにした。
荷物をまとめて宿屋をチェックして、街へ出る。
途中キオスクでチョコレートバーとミネラルウォーターを買った後、地下鉄に乗り込みパリ北駅へと向った。
パリ北駅に着くとすぐにユーレイルパスをヴァリテードし、追加料金を払ってタリスに乗りベルギーのブリュッセル南駅まで。
ブリュッセル南駅に着いたらまた乗り換え、今日の目的地ブリュージュを目指す。
列車の心地よい振動に揺られながら車窓ののどかな田園風景を眺めていると、体の隅々の神経までほぐれてゆく感じがした。

pm12:30 ベルギーのブリュージュに到着。
駅を出るとすぐ目前に、中世の面影をそのまま残した石畳の道路と古いレンガの街並みが広がっていた。
街の中央にあるマルクト広場へ向って歩きながら、ジョルジュ・ローデンバッハの『死都ブリュージュ』を思い出し、感傷のようなものに浸る。
永遠に失われた愛を探して流離う、古都ブリュージュ。
もし気持ち半ばで死に別れた最愛の生き写しに出会えば、それがどんな悪人だろうと、失われた愛を再び得られはしまいかと期待してしまうだろう。
通りは大勢の人で賑わっているのに、少し建物の隙間から路地裏に視線を移せば、そこは水をうったように静まり返っている。
思索に耽ることを許す静寂を孕んだ空気こそが、この街に惹きつけられる魅力なのかもしれない。
今までかたく結ばれていた涙腺がゆるんでいくのを感じて、慌てて眉間を手の甲で押さえた。

数十分歩いて、ようやくマルクト広場に着いた。
休憩する為に、広場に面した小さなカフェの窓際の席に座り紅茶とワッフルを頼む。
椅子の背に体重を預けて広場の中央にそびえる鐘楼を見上げると、ふと今晩の宿をとっていないことに気が付いた。
駅に引き返すべきだろうかと考える姿が不安げに映ったのだろうか、隣に座っている白髪の老紳士がこちらを心配そうに見ている。
恐るおそる近くに安く泊まれる宿屋はないかと尋ねてみると、この近くに知人がやっているホテルがあるからそこへ行けという。
ぼったくられるのかという半信半疑の面持ちに気付いたのか、老人は笑って心配ないという風に地図と簡単な紹介状のようなものを書いてくれた。
「Merci beaucoup. Dank u wel.」
食事を終えるとその紹介状を握り締め、急いでカフェを出た。
この時期は観光客が多い、ぼやぼやしていると手ごろな宿は全部埋まってしまうのだ。

紹介してもらったホテルは、広場からさして遠くない旧市街にあった。
フロントの太ったマダムに紹介状を渡すと、すぐさま満面の笑みを浮かべて歓迎してくれた。
どうやらあの老紳士はこのホテルの前オーナーで、今は引退して昼間はよくあのカフェで過ごしているらしい。
交渉の結果、通常宿泊料金よりも大幅に安くなった。
それでもユースホステルよりは高いのだが、伸之兄さんから貰ったお金の使いどころも考えてなかったことだし、ちょうどいいような気もして泊まることに決めた。
部屋に入ると思わず奇声を発しそうになるほど可愛らしい、白地に淡いセピアピンクの花柄のカーテンとベッドカバーが目に入った。
くすんだワインレッドの絨毯に、重厚感のあるアンティーク家具、アメニティグッズもブランド品で揃えられおり、いかにも女性が喜びそうなもてなしだ。
シャワーを浴びた後、なにやら落ち着かない部屋を飛び出して、セントラルマーケットへと向った。

石造りの家々の間には運河が流れており、そこにはブリュージュという名前の由来にもなった通り、いくつも橋が架かっている。
川辺には若々しい木々の新緑が映え、一日中眺めても飽きないほど美しい光景だ。
うっとりしながら歩いていると、ある毛糸屋さんの白い戸口の前で女の子とおばあさんがこちらを見ている。
小さく手を振ると、幼い「ヤーパンヤーパン」という声が聞こえた。
すれ違いに彼女の瞳を覗き込むと、ガラス玉のように透き通った緑色の虹彩をしている。
同じ瞳でも色だけでこんなに違って見えるのか…。
一瞬感じたためらいは、すぐさま彼女の屈託のない微笑みによって掻き消された。
通りがかった公園で子供たちの遊びを見ていると、いまいちルールは分からなかったが、陣取りのようなものをしているらしいことがわかる。
空をゆく鳥のさえずりもあの子たちと私の言語では表現が違う。
フランス語では確か…。
「Cui-Cui」
私は空を見上げて何度も呟いた。

日没後、歩き疲れて一軒のレストランに入り、ベルギービールとローストビーフを注文した。
どちらも少し味が濃かったが美味しかった。
ほろ酔いで人もまばらな通りに出て帰路につくと、石畳を踏む乾いた靴音とひんやりとした空気が、火照った頬を冷やしてくれる。
部屋に帰るまでに酔いが醒めてしまうのを感じて、少し寂しい気分になった。


散文(批評随筆小説等) FREE HUGS・Ⅲ Copyright 高梁サトル 2010-04-14 01:14:26
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