それは違うのではないでしょうか?──ぽえりんこ大会参加への第一歩として、ある分水嶺を予感しつつ──
藪木二郎

 引用は AtoZ氏 の投稿、「詩人は原点に帰れ」より。「『自動筆記』」という言葉についての氏の限定的な使用法については、敢えて無視させて頂いています。


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>まず基点に、しずかに座っているというディスコミニケーションの状態があり、それからおびただしい無形のエネルギーを消費したうえで、紙の上とか、フィルムのうえとか、舞台のうえとかに何かがあらわれると吉本は説く。

 引用文中に「何か」とあります。

>「自動筆記」されて量産されたものが詩のコーナーにまかり通るということはいったいこれはどういう現象なのだろうか?
>なにか時代的な病根の兆候ではないのだろうか?

 こちらの引用文中にも「なにか」とあります。

「『自動筆記』」という言葉を現代詩の周辺で眼にした場合、多くの読者がまず最初に思い浮かべるのは、ブルトン辺りの名なのではないでしょうか? 私は詩の実作のほうからブルトンに接したことはないのですが、(ケチを付けようとして)現代思想関連の本などを読んでいますと、どうもそんな連想を、しばしば抱かせられることがあります。そしてそこでは、その「『自動筆記』」が、「俗情の張り付いた安定した『形式』」から詩の制作者を引き離すための方法として、紹介されているのです。まぁユング的な(あくまでフロイト的な,としておくべきなのかもしれませんが……)問題とも絡んでいて、断言することはできないのですが、それでも一応、その「『自動筆記』」も、「ディスコミニケーション」の方法だと取り敢えずは言えるのではないでしょうか?
 上の二つの引用文中に見られる「何か」と「なにか」の一致から言っても、そのように言えるのではないでしょうか?

 そしてその後者の「なにか」が、「日本大衆の俗情のもっとも深い暗部に根ざしている」のだとしたら、つまり、「日本大衆の俗情の」とはいっても「もっとも深い暗部に根ざしている」ということなのだとしたら、批評はむしろ、その「なにか」を掬い上げるような方向で、機能すべきなのではないでしょうか?

>大衆の俗情の底に沈むぬまたばのようなものに胎児のように身をゆだねて、異様なもの、外れたもの稀なものへの知的好奇心や関心が及ばなくなった。

 そういえばこのような状態も、一種の「ディスコミニケーション」状態と言えそうですね?


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 また、以下の点についても、私は違和感を感じました。

>ほんとうの戦争という経験をくぐりぬけてきた当時の日本を含む世界の芸術家たちにとって暗黙の符丁があったとすれば、それは芸術というものはコミニケーションにではなく、徹底的にディスコミニケーション(沈黙)に基礎をおくということであった。

 たとえそれが「当時の詩人たちにとっては口にすることも必要のないほどあたりまえのことであった」としても、「暗黙の符丁」をもって他者を批判するといったような行為は、やはりマズいのではないでしょうか?

「ディスコミニケーションの状態」、「おびただしい無形のエネルギー」の「消費」、そして「あらわれる」「何か」。
 これでは「妙に着飾った聴衆」が、「吉本が何をいっているかよく解せ」なかったとしても、無理はありません。実は他方で、妙に何かを解った気にもさせられる話なのですが、それこそその気分は、ある詩に接したときにふと懐かしい気持ちにさせられたといったような気分と、ほとんど相似的なものでしょう。
 否定すべきものは否定すべきですし、掬い上げるべきものは掬い上げるべきです。
 ある現代思想の大家の言葉に「誠実な不誠実さ」という言葉がありますが、そんな「不誠実さ」(あるいは「誠実さ」)は、当然のことながら、あり得ません。

 吉本氏はそこに含まれていないのかもしれませんが、やはり私は、大括りに言って、現代思想系の諸潮流を信用することができません。


散文(批評随筆小説等) それは違うのではないでしょうか?──ぽえりんこ大会参加への第一歩として、ある分水嶺を予感しつつ── Copyright 藪木二郎 2010-04-13 18:49:52
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