ネームレスマン
草野春心



 前から五列目が空席だったから、
 ネームレスマンがそこに座った。
 彼女の膝の上で猫が寝ていたから、
 ネームレスマンがそのうえに座った。
 冷蔵庫でネギが腐っていたから、
 ネームレスマンがそいつを食べた。
 寝るところがないのは、
 ネームレスマンが枕を使っているから。
 胃と肺と膵臓と腸に穴が開いたのは、
 ネームレスマンが錐を持っているから。
 職場にネームレスマンの給与明細が残っている、
 ゼロがいっぱいついている。
 ネームレスマンはいくつもアカウントを持っている、
 たった一桁のパスワードを使っている。
 ネームレスマンのうちには本が一冊もない、
 表札もないしドアベルもドアノブさえもない。
 ネームレスマンは笑わない。
 ネームレスマンは喋らない。
 ネームレスマンは生きていない。
 愛、それをネームレスマンは知っている。
 それについて二週間がかりで論文を書いて
 ハーヴァードの博士号を取得した。
 愛、それをネームレスマンは知っている。
 でも一度もそれを生み出したことがない。
 ネームレスマン、
 ネームレスマン、
 ネームレスマン。あなたを迎えに行きたい。
 ネームレスマン、
 ネームレスマン、
 ネームレスマン。あなたは何処に突っ立っているのか。
 黄昏が溶けて、
 もう二度とあなたに遭うことができない。



自由詩 ネームレスマン Copyright 草野春心 2010-04-12 01:57:09
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