FREE HUGS・Ⅰ
高梁サトル


(あの時こうしていればよかったなんて思っても、本当に戻れたら、きっと同じことをするに違いないのに)


【7.23 快晴】

am6:00、起床。
モーニングアラームをセットし忘れていたらしい。
ほとんど寝なかったから関係ないが、もしもこれで寝坊していたらと考えると少し笑ってしまう。
つくづく私って人間は…そんなことを考えながら準備をしていると、頃合い良く伸之兄さんが迎えにきてくれた。
シルバーのBMWに乗り込み、羽田空港へと向う。
飛行機のフライト時刻が予定よりも遅れ、時間に余裕ができたので空港で軽い朝食をとることにした。

従兄弟の伸之兄さんは、都内でアパレル会社を経営している。
私が田舎から都内の大学に進学して以降、兄貴分として色々と甲斐甲斐しくお世話してくれている人だ。
女好きする顔立ちのやさ男で、スポーツ万能、よく学生時代は湘南にサーフィンをしに連れて行ってもらった。
6つも年上だというのに、まったく老いを感じさせない。
おもむろに机の上に置かれた2つの携帯の片方が、時々震えている。
鳴っていることを伝えても、「ああ」と笑うだけで中身をチェックしようとはしない。
兄さんは近頃2つ年上の奥さんのことを“家政婦”と表現するようになった。
何度目の浮気だろう。
私はアイスティーのグラスにガムシロップを注ぎながら、着信相手の名前を盗み見る。
( ヒラオカタツヤ )
知らない名前…、たぶん偽名だ。
仕事相手ならいつも一目散で応じるし、日曜日の早朝に既婚男性の携帯電話を何度も鳴らす男友達なんていたら気持ちが悪い。
今度の愛人は年下なのだろう、時々会話の中で若者の視点に立って話すことがあって鼻に付く。
こういうワンマンでナイーブな仕事人間は、心の拠り所になる異性が現れるとわりとすぐに相手に感化されてしまうのだ。
兄さんは会社の古い取引先の一人娘と、いわゆる政略結婚をした。
根っからの仕事人間なので離婚するつもりなど毛頭ない。
それでも自分を活かす為に不倫を承知で浮気を繰り返す、社会的地位を振りかざすだけ恋愛中毒の女子高生たちより質が悪いと感じる。
男とはみなこういう勝手な生き物なのだろうかと、がっかりする一方で、コンシーラーで隠しているのか、ぼやけた眼の下のクマが見えるたびに何も言えなくなるのも事実で…。
言葉を選びながらする食事はなんだか味気なく、食べ終わる頃にはプレートが真っ赤なトマトケチャップだらけになってしまっていた。
それでも別れ際「何かの足しに使って」と渡された数枚の一万円札を見ていると、不倫相手の女にも非があるような気がしてしまうのだから、嫌な気分になる。
嫌な気分だが、今日はそれ以上深く考えないことにした。

am11:30 キャセイ航空機にて離陸。
それほどの感激もなく、自分の気持ちの穏やかなことに驚いた。
これから暫くの間、日本の喧騒から逃れられるのだからもっと嬉しがるのかと思っていた。
…と、自分を他人のように扱うのは私のよくない癖かもしれない。
昨夜寝てないので疲れたのか、眠気に誘われるように目を閉じた。

pm15:00 香港に到着。
香港大学の生協担当の学生による市内案内が、バスで4時間ほど行われた。
大きな建物の窓々から沢山の洗濯物がさがっている光景や行き交う人々の聞きなれぬ言葉が、かろうじてここが日本でないことを感じさせる。
「こんにちは、ひとりで観光?」
ふと頭上から落ちてきた日本語に顔をあげると、そこには色白でメガネをかけた細身の中年日本人男性が立っていた。
手短に自己紹介と握手を交わす。
男の名前は郷田というらしい。
それから2時間程、私たちは香港の街並みを眺めながらとり止めもない話をした。
彼は気分がいいのか、よく喋った。
自分がかつて日本の衆議院議員Sの公設秘書として働いていたこと。
ある日そのSから、Sと同郷の新人衆議院議員Tの参謀役として配下にくだるよう指示されたこと。
「それも先生の地位を磐石にするものならとの思いで、必死にお仕えしました。私の立場から言うのもなんですが、最近の若い日本の政治家というのはちょっと頼りないもので(笑)確固たる思想や信念なんてない、政党に就職したただのサラリーマンのようです。それを肌で感じるごと、日本の将来を危惧して、どうにかせねばとまだ若かった私の胸の内はずっと燃えたものです。」
それからTと共に歩んだ数年、2度目の選挙に無事当選したのを見守った後、彼は政界を去ることを決意したのだという。
「私は先生に与えられた最低限の責務は果たしたと考えている、悔いはない。」
その言葉の真意は分からなかったが、しかしひとりの人間の人生のターニングポイントとなった深い事情があることだけは窺い知れた。
彼は現在香港大学の事務局で、学生たちの就職相談や指導を行っているという。
「政界を引いたらどんな形であれ、教育現場に携わるのが夢だったんです。次世代を担う若者を支えたい。こんなこと思うのは、僕に子供がいないからかもしれないな…」
私は何も答えずに、言葉が途切れた先の遠くの方にある南シナ海の水平線に目を凝らした。

案内が終わると、香港大学のキャンパス内で簡単な食事が用意されていた。
簡単といってもその量の多さと油っこい料理の数々には閉口し、ほとんど小籠包と湯だけでお腹いっぱいになった。
食事をすませたところで、皆とお別れ。
「多謝哂。」
互いの頬と頬をすり合わせて抱き合い、別れの挨拶をした。
学生たちの希望に満ちた朗らかな笑みと違って、郷田のそれには翳りが見えたが、気にかかったところで今の自分に何ができるというのだろう。
私はさらの着替えが詰め込まれた荷物を手に、大学を後にした。
空港まで戻り、次の中継地点バンコクへと出発する。

pm21:55 ルフトハンザ機内にて。
キャセイ航空よりもやはり美人の客室乗務員が多い。
気分が良くなり、ビールを一杯頼む。


散文(批評随筆小説等) FREE HUGS・Ⅰ Copyright 高梁サトル 2010-04-10 05:07:05
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