ホロウ・シカエルボク








障子越しの陽の光が、やわらかな色味に変わるころになると
あのひとは楽しそうにわたしを呼びつけては
「春を描け」とねだるのでした


わたしはあなたの枕の横に
ひとさし指でかえるやつくし
梅に桜にチューリップ
頭に浮かぶかぎりの春を
ゆっくりゆっくりなぞるのでした
あなたはそんなわたしのことを
しずかにやさしく見ておりました
わたしがなにも描けなくなって
困って首を横に振ると
薬を飲んで眠るのでした


あなたは春が好きでした
春のあいだのあなたには
なにやら不思議な空気が満ちておりました
「なあ、おれが良くなったら
いまよりもましになったら
ふたりで桜を見に行こう
堀川の横のベンチに腰をかけてさ
おにぎりなんかつまんで
のんびり桜を眺めようじゃないか」


はやくしないとどれが桜か判らなくなりそうだと
あなたは無邪気に笑うのでした


要らなくなった床を片づけて
わたしは堀川に出向きました
開花は先日終えたばかりでしたが
あいにく今年は菜種梅雨で
早々とはなびらはくじけはじめておりました
まるで真冬のように寒くて
このところ外に出なかった私は
少し薄着で来たことを後悔しておりました
強い風が吹いて
一度落ちたはなびらが
寝返りを打つようにはらはらと舞い
水溜りの中に沈んでゆきました
ささやかな溜まりでしたが
薄紅を殺すには
それでも充分なくらいでした


わたしはベンチに腰をおろし
ぼんやりと桜を見ておりました
空はまだ薄曇りで
どうしてこんな日に
きれいに晴れてくれないのかと
そんなことが少し
悔しくもありました





ねえ
桜ですよ



あなた










自由詩Copyright ホロウ・シカエルボク 2010-04-08 16:50:28
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