『神戸』エッセイ6500字
アマメ庵

『神戸』

何も伝えていなかった。
だって、彼女は喜ばないかも知れないし、ここの所は電話を掛けてもメールを送っても応答がない。

走りなれた国道2号線。
昨夜の雨が洗った空気。
春色の空が拡がっていた。
付き合っていたころは、浮かれ心地でこの道を走った。
今日は、焦燥。
ハンドルを握る手に汗を感じる。
彼女になんと言おうか、何度も、何度も考える。
考えても、同じことがどうどう巡りで、どこに行き着くこともない。
しかし今日、彼女に会ってしまえば、恐らく一つの結果がもたらされるはずだった。
そしてそれは、ぼくにとってきっと悲しい結果である。
焦らないよう、路線バスの後ろに行儀良くならび、やがて2号線は左に屈折し、43号線のオーバーパスを潜って右折する。

ここのナフコには、自転車の鍵を買いに来た。
彼女との時間が合わないときには、ここを入ったコナミスポーツに行った。
その横には、二人でドライブに行った時のマツダレンタカーがある。
右手の中央区役所の前で、どこかに行く彼女をピックした。
あの時は、どこに行ったっけ。
一つ一つの本当に小さな思い出。
本当にくだらない思い出。

彼女と別れ、半年以上の月日が経った。
別れてからも、電話やメールでの連絡は小まめにしていた。
いわゆる付き合っているって言う関係ではない、なんだか曖昧な日々が続いていた。
そんな間も、ぼくは彼女を愛おしく思い、彼女は恐らくふわふわしていた。
自分勝手に、彼女を占有し続けている気になっていた。
それでもこの曖昧な関係を改めようと、真剣に手紙を認めたのがひと月以上も前。
それ以来、連絡は途絶えた。

朱色の神戸大橋を渡ると、ポートアイランド。
付き合っていた当時なら、一番浮かれるスロープだった。
いつもの、と言っても何ヶ月も着ていなかった指定席にトラックを停める。
サイドブレーキを上げる。
ブレーキのエアがスパァっと音を立てて抜け出して、ぼくも空気を吐き出した。

彼女のアルバイトするスーパーへ遊歩道を行く。
作業服姿のまま、サングラスを掛けた。
確か、このサングラスを買った日が、彼女とデートらしいことをした最後だったのではなかろうか。
街は明るかったけれど、並木の木陰には冷たい風が歩いていた。
出勤予定も確認していない。
もし、今日彼女がいなければ、どうしようか全くノープランだった。
仕事の合間に来ている。
今日が駄目なら、当分は面会に来ることも不可能だった。
もっとも、彼女がいたとしても、どうするべきなのか判っていない。

小さなスーパー。
4つだけのレジ台。
ぼくは、お菓子売り場の隙間から、ジュース売り場の合間から、パンコーナーの端からレジを覗いた。
彼女は、いた。
世話しなくバーコードを読み込み、早口で金額を読み上げる彼女がいた。
そんな姿を確認すると、ぼくは隠れるようにしてお菓子コーナーへ。
彼女の好きなチュッパチャプスを一握り掴む。
それにアクエリアスのペットボトルを一本。
そして、彼女が担当するレジにお客さんがいなくなるのを見計らい、ぼくはレジに進んだ。

下向き加減でレジに近づく。
下を向いて、レジスターの操作をする彼女。
ぼくは、彼女の前に立つと、わざとパラパラと音がするようにチュッパチャプスをレジ代に置いた。
「お願いします」と、クールに笑いかける。
「いらっしゃいませぇ」と、元気に挨拶が返ってくる。
彼女の目が手元からこちらを向く。
午前中のスーパーに作業服でサングラスの男は目立つ。
しかも、買いに来たのはチュッパチャプスときている。
サングラスの下から彼女の視線を確認すると、
「やあ」
はっきりと発音して歯を見せた。
凄くクールに、格好つけて言ったつもりだった。
それは、上手くいったと思ったけれど、実際はどうだったか。
彼女に見えないところで、ぼくの膝は今にも震えそうだった。
「だいちゃん。なんで居るん」驚く彼女。
いろんな形で、何度も彼女を驚かせてきた。
これは、予想された応対だ。
「やあ、来てしまったよ」これも、台詞を読むようにはっきりと言う。

「31円が5点、98円が1点、お会計253円になります」
財布を出して、代金を支払う。
「253円ちょうど頂きます。ありがとうございます」
てきぱきと仕事をする彼女。
都合よく、レジの周りに他のお客さんはいなかった。
「飴は、君にプレゼントだよ」
「あぁ、ありがとう」
エプロンにチュッパチャプスをしまう彼女。
「あとこれ、お土産」
ぼくは作業着のポケットから、キャラクター物のご当地ストラップを手渡した。
「あぁ、ありがとう」
まだシナリオの通りだ。
彼女と背中合わせに立つレジの女の子が、訝しげにこちらを伺っていた。

バイトを終える13時からの約束を取り付ける。
「今日、昼飯でもどうや」だなんて、なんて安直な誘い文句だったろう。
半年以上振りに見た彼女は、元気な彼女で、そんな表情を見せられると、もしかしてぼくを待っていてくれたのではないかとも思われた。
トラックに戻って、焦燥な気持ちを落ち着けようとひと眠りする。
以前は、眠たい運行を押して、彼女に会いたいためにこの街を目指した。
彼女が学校か、あるいはアルバイトから帰ってくるのを、トラックの中で待った。
やがて窓がノックされ、嬉しそうな彼女の顔がそこにあったのは、過去の話。
彼女が来るのは、いつも約束よりも遅かったっけ。
今日はたまたまトラックに乗ったが、もう本職ではなくなったし、神戸に来ることもまずないのだ。

ドリームズカムトゥルーの『未来予想図?』が鳴って目を覚ます。
彼女だけに与えられた指定着信音。
いつもぼくから電話をかけていたから、この着信音を聞くのはずい分と久しぶりだ。
発信者の名前の後ろに付けられたハートマークに頬を緩ませて、受話ボタンを押す。
「もしもし」なるべく抑揚をつけないように、いつもの調子で出る。
「今日どないするん」彼女の声には、棘が感じられた。
ぼくに対する非難。
さっきレジで見たときの淡い希望は崩壊し、これから伝えられるであろう悲しい答えが察せられた。
声を聞いた途端に、トラックまで来てよとは云えなくなった。
「ん。そっちに行く」

数時間前に歩いた遊歩道。
さっきよりも僅かに暖かになっていた。
近くの幹線道路をトラックが行き、左手の公園で子どもたちが戯れている。
ぼくの鼓動は早く、作業服のポケットに突っ込んだ手は汗を掻いている。
スーパーの2階にある控え室の前で待ち合わせる。
そう、初めて彼女とあったのもこの場所だった。

mixiという流行のインターネットサイトで知り合った。
あれから2年足らず。
食事に行って、水族館に行って、付き合うことになって、何度も食事したり、いろんなところに行ったり、時に肌を重ねたり、距離を隔てて交際した二人はなにより沢山電話したね。
そして、君を泣かせ、別れることになって、それでも沢山電話したね。
君は、ぼくのモノクロームの世界を彩色し、枯渇した喉に潤いを与えた。
そう、君がいるだけで、どんなに励まされただろう。

「やあ」クールに、ひょうきんそうに右手を挙げる。
応えて手を振る彼女。
優しい、愛くるしい笑顔。
その笑顔は、君の優しさなんだろう。
止めてくれ、ぼくはまた期待させられてしまう。
勝手に皮肉に考えて、勝手に泣き出しそうになった。
「ビックリボーイに行こうか」なるべく平静に、すぐそばにあるファミリーレストランに誘う。
「ビックリボーイて久しぶりに聞いたわ。ビッグボーイやろ」
「そう。ずっと前から言うてんで」
「あんただけやん」
彼女の一歩前を上向き加減で歩く。
ぼくの両手はポケットの中。
そんなこと言いたいんではない。
食事なんかどうでもいい。
君が許せば、このまま連れ去ってしまいたかった。
その笑顔を、いや、かつてぼくだけに見せたであろう笑顔を、他の誰かに向けることに耐えられなかった。
君が許せば。

食事時を少し過ぎていたが、喧騒な店内。
あっちで食器が触れ、こっちでハンバーグが焼ける。
君と初めて出会ったときもここに来たことを、当然君も覚えているだろう。
テーブル席に対面に座る。
改めて顔を見る。
彼女は綺麗になっている。
これまで、可愛いと思うことはあっても、綺麗と思うことは少なかった。
2年前の純朴そうな少女が、紅を塗って正面に座っていた。
半年以上も会ってはいなかった。
19の少女が21になって、変わるのは当然だろう。
「ホンマ久しぶりやなぁ」
「せやなぁ」
「元気、しとったか」
「んー。ぼちぼちやなぁ」
「なんか、綺麗になったんちゃう」
「そうかな、気のせいやろ」
「やっぱり気のせいか。眼鏡曇っとるんかも知れん」
「しばくぞ」
お互いの近況を語り、冗談を言い、笑い、食事が運ばれる。
(お前が好きや)
(もういっぺん付き会うてくれ)
(新しい彼氏とかおるんか)
言えない言葉。
言ってしまえば、なんらかの答えがある。
きっと悲しい答え。
少しでも、本当に少しでも長く、彼女との時間を共有したかった。
昼時のファミリーレストランは、真剣な話に向かない。
やはり、トラックの中で会えば良かった。
先月の長いラブレター。
彼女も、今日ぼくが来た理由はわかっているはずだ。
(ぼくのこと、どう思てんねん)
(この間の手紙、読んでくれたんやろう)
こうして話しをして、食事をしていると、別れてしまったことも忘れてしまいそうになる。

食事が済み、テーブルが片付けられた。
ぼくに残されたタイムリミットは近づいているはずだ。
「あたしなぁ、最近ダーツに嵌ってんねん」
「そうなんや」ちょっと前の電話でも耳にした話しだ。
「なんか、あんなに熱中できる趣味、初めて見つけたわぁ」
「そら、よかったなぁ」
ぼくの鼓動が高鳴る。
ダーツバーなど、ぼくは行ったことはないが、女子大生が一人で行くようなところではなかろう。
女友達と行っているのか。
それにしても、誘惑の可能性は大きい。
女子大に通い、アルバイト先も女性ばかりと思って安心していた。
すぐ近くにいられないぼくは、あらゆる男の存在を恐れた。
(誰と行くんや)
「だいちゃん、ダーツとかやったことないわ」
「結構、嵌ると思うで」
「そら、ちょっと挑戦してみなあかんなぁ」
(誰と行くんや)

僅かな沈黙があって、調子を合わせたようにお互いジュースグラスを持った。
彼女が静かに言う。
「あんな、好きな人できてん」
突風が顔面に叩きつけられた。
「えっ。そうなんや」ぼくは明らかに動揺していた。
「っていうか、もう付き合おうてる」
沈黙。
長い沈黙。
途端に、彼女の顔を静止できなくなった。
店内の天井や、ドリンクバーや、厨房のほうに視線だけきょろきょろ廻る。
周囲の話し声はフェードアウトし、食器の触れる音だけが脳内に響いた。
「そっかぁ」今度は、明らかに気落ちしていた。
手先が震えるのがわかった。
唇も震えているかも知れない。
「だから、だいちゃんの気持ちには、応えられへん」
なにも言えずにいるぼくに、彼女は厳かに宣告した。
また沈黙。
「そっか」力なく言うぼく。
他になんと言えただろう。

店内を見るともなしに見る。
口をもぞもぞして、手で覆ってみたりする。
「そっか」意味もなく繰り返す。
彼女は、なにも言わない。
ぼくのターンだった。
(どんな男や)
(いつから付き会うてんねん)
聞きたいことは、あった。
しかし、それは無意味であると思われた。
胸の中でぼくは、嗚咽を漏らし、涙を流していた。
感情の思うままに、机に拳を叩き付けそうになった。
それもきっと無意味だ。
「じゃあ、もう、あんまりしょっちゅう電話とか、メールするのは迷惑かな」
物分りの良い振りをする自分が忌々しかった。
ラブレターに認めた気持ちを、受け入れてくれないことは予想された。
しかし、交際相手がすでにいることは予想外だった。
「うん。って言うか、もうあたしから連絡することは、ないと思う」
ゲームセット。
「そっか」もう虫の息だ。
また沈黙。
極僅かに浮かした拳を、呼吸と共に机に置いた。
長い沈黙。
もう、何も言えない。
人目も構わず、この場で大声で泣きたかった。
ぼく思考は、一切の言葉を失ってしまった。
長い、長い沈黙。
「行こうか」
波の僅かな狭間、ぼくは言った。

店外に出ると、爽やかな春の遊歩道があった。
並木が影を作り、桜が咲いていた。
何も言えず、ゆっくりと歩くぼく。
彼女も、ぼくの一歩右後ろを、何も言わずに付いて来た。
しばらく歩いてから、一メートル前の空気に向かって言った。
「寒いね」
何、言っているだか。
彼女の方を見ることは出来なかった。
彼女に見つからぬよう、涙を拭った。
また、しばらく歩いて言う。
「いくつくらいの人」
「33歳」彼女は、静かに答える。
「結構離れてるね」
何も言わず歩く。
「何してる人なん」
「よう知らんけど、車関係の仕事」
そうか、ちゃんとした仕事なら良かった。
彼女を幸せに出来そうな人なら良かった。
いや、寧ろ、シャランポランな野郎なら、ブッ飛ばしに行ったのに。
いっそその方が、良かったかも知れない。
「どこで知り会うたん」
「ダーツバー」
やっぱり。
「もうどれくらい、付き会うてんの」
「一ヶ月くらい」
ぼくがラブレターを送った頃だ。
あの手紙をあとひと月早く出していたら、結果は変わったか。
たら、ればは無意味だ。

「お花、綺麗だね」
花壇を見て、無邪気に彼女は言う。
「変わったね」
以前は、花を見て綺麗だなんて言うことはなかったのに。
「そうかな」
いや、君は変わった。
ぼくと別れ、他の男性と知り合い、確かに君は変わった。
より魅力的になったと言って良い。
ぼくの、知らない一面を見せた彼女。
寂しかった。

二人で歩いた。
何度も、歩いた道。
君の育った街。
恐らくもう、ぼくは通ることはない。
地元ではないぼくにとって、神戸の景色は君との思い出そのものだ。
君は黙って付いてくる。
しかし、これ以上、無意味だ。
駐車場までの半分ほどを行った頃、ぼくは立ち止まった。

人通りも疎らな遊歩道で、君と向き合う。
「ありがとう」
君には、こころから感謝したかった。
かつて、ぼくに好意を持ってくれたこと。
今まで、ぼくの支えになってくれたこと。
「教えてくれて、ありがとう」
悲しいことだけれど、知らずにはいられないことだった。
君にとっては、言い難かったに違いない。
「幸せになれよ」
愛した人には、幸せになって欲しい。
本当は、ぼくが幸せにしたかったけれど、君が幸せならそれで良い。
「だいちゃん、あたし、幸せよ」
そうか。
それなら、良い。
「良かった」
そう思うのに、悲しすぎる。
もうこれ以上、言うことはない。
もし、ぼくが力突くで君を攫っても、君を悲しませるだけだよね。

別れる、本当に別れる時だった。
今日、話しが出来て良かった。
(またね)
そう言いたかったが、またが無い、そう思うと言えなかった。
そんなぼくを見かねてか、彼女が言った。
「じゃあね」
そうして、右手を差し出した。
「じゃあね」
ぼくは、馬鹿みたいに繰り返した。
差し出された君の右手を握った。
それ以上、何も出来ない。
かつては繋いで歩いた手。
握り返す彼女は、力強かった。
顔を見ることはできず、胸元を凝視した。
その胸元が、これまでになく魅惑的に感じた。
「じゃあね」
ぼくは、もう一度繰り返す。
「うん」

ぼくは、静かに彼女の手を離し、そして背を向ける。
その瞬間から、もう涙は止められなかった。
振り返ることは出来ない。
ゆっくりと歩いた。
眼鏡をはずし、洋服の袖で何度も涙を拭う。
あとから、あとから、涙は溢れた。


※※※あとがき

このエッセイは、最後のラブレターだ。
ぼくの、感謝であり、懺悔であり、未練であり、悪足掻きだ。
この日記を書き、そして公開することで、ぼくの愛がまぎれもない本心であったことを証明したい。
キイボードで文字を打ち込む間、何度ひとり涙して中断したことだろう。
あの日から今日まで、本当に、何度泣いただろう。
冷めたぼくを暖めたのは君だった。
乾いた心を潤したのは君だった。
君が、潤し過ぎたせいで、ぼくの涙腺は止まらないよ。
こんなぼくに、変えてくれた君に、心から感謝したい。
もう、明日からは泣かない。
ぼくも、新しい恋を見つけなくてはならない。
君の、新しい相手との幸せを願うよ。
だから、
だから、ずっと友達だろう?


散文(批評随筆小説等) 『神戸』エッセイ6500字 Copyright アマメ庵 2010-04-05 06:32:53
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