月の引力
salco

其昔、あの惑星のゑうろぷと発音せる、ぢぢいのくさめのやうな陸地の
ほらんどなる、白い吐息みたよな地域のずんでるとと云ふ、脱腸帯ぢみ
た名の地点に青年は生まれたのだ。
内気の癖に激情家の醜男は何をやつても衝突を起す嫌はれ者の能無しで、
二十七歳の或日卒然と画家をしやうと思ひ立ち、猛然と画を描き始めた。
モチヰフがミレヱの模倣であるうへ素描の素養も無い為、糞を塗立てた
やうな褐色の背景に馬鈴薯と見粉ふばかりのいびつな百姓が襤褸に着膨
れて硬直してゐると云ふ、後に東欧圏に蔓延せるプロレタリヤ藝術なる
文化的黒死病を彷彿さしむ画作に没頭した後、貧民の非藝術性から脱し
ふろんすと云ふ、膣洗浄剤めく繁華の地へ赴きあるゝなる、口唇期の寿
唄らしき境界に発見せる色彩に就ては萬人の知る処である。
燃上り渦巻く彩色と形象を画布に刻み塗篭めて三年、拒絶が残響する耳
の片方を斬り落し、終には己が脳味噌の錯乱をも倦んで生を終へたが、
藝術と云ふ、紙一重びとの救護所にさへ安住を許されなかつた不適合者
の兄を物心両面で支へ続け、後追ひのやうに病没した弟テヲも、誰一人
理解せぬ兄ヸンセントの作品が今日、
多くの人間にとって、知らぬ人のないモナリザと双壁をなす存在となっ
ている事を知ればさぞや喜ぶことだろう。
モナリザの眼差しに射すくめられたように感じた者も、向日葵や麦畑に
引きずり込まれるような幻惑を覚えた者も、共に絵の前を去り難い。
けれど謎めいた相貌と背景に魅入られても、嗚咽を洩らす者はそうはお
るまい。あるいは不世出の汎用型天才・聖ダヴィンチの人物像を心に描
けば、嫌な野郎だったろうなと思う位であるのに対し、近所にこんな人
格障害・精神異常がいたら処置入院を願わずにはいられないであろうゴ
ッホには、あたかも肉親への追慕の如き胸痛を覚えるのだから勝手なも
のである。これは隔世の長短や天才の学術的差異の故ではなく、またそ
の境涯のコントラストが招来する判官贔屓でもないらしい。

その昔、
「これは小さな一歩だが、人類の偉大な一歩である」
とか何とか、キング牧師の大統領就任演説第一声みたいな名台詞を言い
ながら月着陸船イーグル号の梯子から片足を下ろしたその時 、彼方か
らブレジネフの歯軋りとニクソンの高笑いが聞こえた。かどうかは知ら
ないが、ニール船長はそのぶ厚い靴底に何かを踏んづけたような気がし
たのだそうだ。
しかしなにぶん、永遠のサンチョ・パンサ――事によってはロシナンテ
――となり憤懣やるかたないバズの尻が頭上に迫って来たし、あとは偉
大な一歩を再現したりスロー再生の兎よろしく星条旗をおっ立てたり鉱
物を採集したりとスケジュールが詰まっていたので、そのことを思い出
したのは無事地球帰還を果たしてから四日も経った、NASAとのデブ
リーフィングの最中だったという。
が、船長はお喋りを好まぬ人になってしまったので確かな話は聞けない
のだ。

バックパックの圧縮酸素をシューシュー吸いながら、無音の漆黒に剥き
出しの死の世界に在って、
「何という虚無だ、こんな所に三日もいたら 俺は発狂するかもよ」
と、エリート中のエリートである屈強な軍人が考えたかは知らない。
少なくとも、
「かつてどんな皇帝も英雄ものぞめなかった場所に俺は立っている」
とだけは考えなかったに違いない。
空軍パイロットは海兵隊員と違って単細胞では務まらないし、宇宙飛行
士の頭脳ともなれば権力者などという余りに俗な、社会現象に過ぎない
欲望の一形態を自然科学の尺度に用いる筈もないからだ。
また月面の光景は物語を仮託するには余りに荒漠な、行為の一切から意
味を剥奪する無の深遠であったろう。ただ頭上遥かに小さく浮かぶ星の、
紺碧の大気を纏ったその圧倒的な慈悲と孤立に何らかの感懐を催したこ
とは疑うべくもない。

こんな無窮の秩序はやはり、物理ではなく創造主の存在によってしか説
明がつかないと、宇宙体験の後に却って宗教的になる飛行士は多いとい
う。人智では測り知れない気有壮大をまのあたりにすれば当然生じる、
それは高次の畏怖と敬虔の獲得であって、寧ろ羨望すべき境地だろう。
曰く、人類の偉大など象に食らいつく一匹の蚤だと。

例えば進化論を否定し避妊と人工中絶を殺人と糾弾する宗派がある。
雷鳴に慄く穴居人の頃からこもごも語り、脚色を凝らして来た伝承の労
作をあくまで遵守しようというのである。定義一つでエテ公沙汰の諸々
が止められたら世話はない。
このアナクロびとの固執はしかし智の退行と一笑し難い側面を持つ。
何でも知りたがり、克服したがり、征服しなくては夜も日も明けぬ人間
の、知らなくてもよい、踏み込まなくともよい領域を呼ばわるそれは、
既に死せる神への哀歌に過ぎない。それでもなお葬るべきでない畏敬の
情実がそこにはある。これを無明と呼べるか。
万能の猿が石礫を槍に持ち替え、万能の科学が大股開きのイヴに受精卵
をお手植えし癌のように胎児を掻き出す。万能の人類が成層圏を削ぎ落
とし地中で終末を起爆する。ほぼ行き着く先まで来た。ここ半世紀は常
に指待ちである。
確かに壇上におわすヒトラーを讃仰するより至高の無存在でも崇めてい
る方が善ではある。しかしこの二者択一に悉く失敗する我々の業は有史
以前から実証済だ。
神を信ずるも疑うも鼻ほじりに等しい。汝殺すなかれという最小の戒に
さえ背く、おのれの手首を両断するのが至難なのだ。
  
万物の摂理を掌握する神が存在するのなら、無辺の存在を続ける宇宙が
かくあるように、神は破滅を望んではいないだろう。そして全智全能の
神が無限の絶対者であるなら、微細な単細胞生物に過ぎない人間の破壊
行為など関知しない。即ち神を唱えて他者を、同胞を異教徒を攻撃する
狂信者の大義は既に破綻している。
人間だけが破壊を希求するのだ。それは低劣な獣性の解放であり、カニ
バリズムの法悦でしかない。地上には絶望しか残らない。

さて二人の宇宙飛行士はイーグルの梯子に足を掛ける。
時は短し酸素は少し、厳重に遮蔽しているとは言え土砂降る電磁波も危
険である。
白黒映画の世界へ迷い込んだような、悪い冗談としか思えぬ景色に名残
は尽きぬ気もすれど、おっちゃんは行かねばならぬ、さらば杉作。
鞍馬な二人には虚空で戻りを待つアポロ壱拾壱号がおり、命を賭して遂
行すべき任務が前途にあり、帰還すべき星さえあった。遠い我が家で再
会を祈る家族があり、帰属する国家・社会があった。何という贅沢だろ
う。
一方、不遇の狂人ゴッホの耳朶は、こうして人類の体温からもおのれの
絶叫からも切り離されて、もう百二十年も人知れずここに埋もれている。

             
 鞍馬天狗 大佛次郎原作



散文(批評随筆小説等) 月の引力 Copyright salco 2010-03-26 00:28:37
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