言葉/物に対する意思/力 -言葉の暴力についてのコメント-lightとなることを願って
黒髪

暴力についての投稿文があった。違和感を全体に対して感じた。それを表明しよう。

暴力とは、傷を与えるほど強い結果をもたらす力である。

言葉とは物を認知するための記号であり、空間の中に浮かぶ破片の比喩で表象されるだろう。言葉に力はなく、ただの物である。人間が物にぶつかり、力を受ける。作用反作用の法則。記号に対してどのような態度を取るかは各人にまかされている。それを動かして他人にぶつけることを、コミュニケーションの働きかけ/意志的発語と呼ぶ。記号を認知していない場合、記号に頭をぶつける。自分で物に体を打ちつける行為が、非論理的な、無益な論の中には当然見られるだろう。

村上春樹がエルサレム賞受賞の講演の中で、体制は壁であり、各人は壊れやすい卵のような物だ、といっていたような記憶がある。言葉で壁を作るのであり、その向こうには行けない。壁に向かって人を投げつけるような行為を暴力と呼ぶだろう。暗闇の中では壁は見えず、或いは認知の出来ない人は、誤って自分で壁にぶつかり、人を壁の方に投げてしまうだろう。悪意とは、気づいていてそれを行うことだ。そして無知は悪としてはたらくことが多いだろう。

言葉の壁を、解体する技術を身につけるのか、拳で打ち破る強さを身につけるのか、各人の、努力、とはこういう場合に使うべき言葉だろう。

*以下は、10/3/23における追加文です

壁を自分のまわりに築き上げる人もいるだろう。言葉のやりとりが傷つけ合いとなれば、戦争をしているようなものだ。暗闇の中で、壁にぶつけ合ったり、言葉の弾を発したり。主体には言葉しか見えず、主体同士は直接の視野に確認することが出来ないのが、論戦だ。そこでは主体同士の位置関係は、テレポートのように現れたり消えたりする映像のようなものとして、主体の世界内には他の主体は存在する。
比喩なので正確なことを言えないが、暗闇の中で迷っている主体にライトを照らし出して壁に気づかせることが他者には出来る。その行為は、他者がその主体に姿を見せることにもなり、位置に気づかせることになる。敵であると認識され、攻撃されるかも知れない危険性をはらむ。しかし、暗闇の中で迷っている主体に光を与えることは可能なことなのである。暗闇の中では、じっと助けを待っている人がいるかもしれない。論戦を続けてきた相手同士であれば感情が邪魔をするが、自らを犠牲にする経験と度量を持っているのが、大人であろう。筋を通すのが、大人社会の基本的なルールであるが、主体の位置の違いと、現代の闇はもはや戦争である。我々は仁義なき戦いのまっただ中にいるのではないか。


散文(批評随筆小説等) 言葉/物に対する意思/力 -言葉の暴力についてのコメント-lightとなることを願って Copyright 黒髪 2010-03-21 00:34:13
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