消臭考
salco

外来者に対して印象は良くしたい。臭いのは自分も不快だ。私も玄関や
トイレに消臭剤は置いている。見方によっては不気味なポプリの他は、
ドクター・コパの開運だの假屋崎先生のバラの香りだの、ブルーレット
置くだけだのムシューダだの安い物を、特にこだわりはない。スカスカ
になったら取り換えるだけで、スプレー・ガンを構えてまで戦いを挑む
つもりはない。
ファブリーズ・ママ。ありゃ間違いなく神経症だ。いや、あの執拗な攻
撃性は人格障害の域に達しているかも知れない。
商品の有効性を謳う為にデフォルメしているのはわかるが、世の母親や
女性がああした気質に共感し、あるいはああした気分が伝播するのだと
したら、これは害悪に他ならないと思う。

部活とニキビでむさくるしい息子達と、サラリーマンで中年のむさくる
しい夫という家族構成の中で孤軍奮闘する、潔癖症の奥さんがいる。
青畳めいた男の匂いというのは、なるほど顔をしかめ息を止めるに足る
むさくるしさではある。汗と雑菌まみれのユニフォームやスニーカー然
り、クローゼットに掛かったくたびれオヤジのジャケット然り。
しかしてめーは一体何様なのだ、亭主がぶち込んだシロップで受胎し、
なまなました体で皮脂・汗・その他モロモロの分泌物に香水ぶっかけて
澄まし顔しているだけの、同等の生き物ではないのかと言いたくもなる
のだ。
ある人のご主人は、生理中か否かは首筋を嗅げば判ると言う。的中率は
怪しいものだが、経血臭でなくとも、その期間はホルモン分泌が盛んな
わけだから一理あるのかも知れない。とにかく女の足裏が花の香りであ
ったためしなど、古今東西ありはしない事だけは確かだ。
それが一人脂の抜けたような顔をして、「何か臭くない?」と息子二人
に賛意を促し亭主の加齢臭を排斥する。息子達も息子達で、朝な夕な昼
間から夜ごと屑かごに丸めたティッシュを放り込んでいるのも忘れた顔
で、「うん、なんか臭い」などとほざいてみせる。ここからぷんぷん匂
い立つ偽善を嗅がない人はいないだろう。よくもまあこんな広告プラン
を採用したもんだと、企業のセンスにも開いた口が塞がらない。

我が身を省みずに言わせてもらえば、成人男性というのは、殊に中年男
というのはしょーもない生き物ではある。時に女の肩に食い込んで来る
砂袋のようだ。しかしおのれが選択した共生を続けている以上は、その
だらしなさや無神経も許容している筈なのだから、匂いの一つや二つに
慣れてやるのが人情つーもんだろう。汗や皮脂の染みた毛織物の匂いが
厭わしいなら、おのれのムダ食いを節約してクリーニングに出してやれ
ばいいだけの話だ。ケーキ一個半分だぜ? でなきゃあんたは鬼だ、
いや猿だと言いたい。

昨夜の焼き肉や焼き魚、餃子の匂いが一体、何故いけないのか。来客と
は言え天皇御一家や皇族でもない庶民階級の、しかも近所の主婦連中や
せいぜいが学級担任ふぜいを迎え入れるのに、万人の共通項である生活
臭を何故恥じなければならないのか。ばっちい足裏のバイ菌と匂いが嫌
なら何故、昔のお母さん連中のように上がり框から風呂場へ追い立てて
足を洗わせないのか。それが解せない。ママ、それが躾じゃねえのけ? 
シュッとひと吹きの簡便性をウリにしながら、これほどまでに他者の匂
いを嫌悪し、生活の匂いに警戒し、誰が感染して患うわけでもない生体
の外分泌物を、こうまで害毒視してみせる必要性があるのかと思う。
私がこのコマーシャルを不快に思うのは、その不寛容さなのだ。

昔の職場に少し似た人がいた。普通に善良な年上の女性で仲良くしても
らったが、他人の言動に神経質な一面があった。誰しも大なり小なりそ
うなのだが、困ったのは、本気で目くじらを立てる。私も一度軽薄なジ
ョークで怒らせてしまったが、恨みがましく引きずるわけではないので
助かっていた。愚痴が多いのもストレスフルな仕事だから了解事項で、
ふんふん、そーそーと同調しておけば誰も困らない。
そんなある日、出勤の電車でこの人と一緒になった。立ったままおしゃ
べりをしていると、傍らの中年サラリーマンが「ぶ、ふぇーくしょん!」
と大きなくしゃみをした。すると彼女はぴたりと話すのをやめ、「信じ
られない」とひと言、その男性をもの凄い目で睨みつけたのだ。
もの凄いというのは、ジェイソンの無邪気な殺意よりは数倍凄いという
ほどだ。しかもやめない。いつまで経ってもやめない。
口を覆わずにくしゃみをしたのもマナー違反だろうが、仮にそのミクロ
ンレベルの飛沫を我々がたっぷり浴びたからと言って死ぬわけではなく、
潜伏期間後に発症すると決まったわけでもない。よしんば発症したにせ
よ、風邪やインフルエンザなど見知らぬ人々とやり取りするお中元お歳
暮のようなものだから(当時はタミフルも効かない新型は存在しなかっ
たにせよ)、もらって遺憾に思いこそすれ激昂するのはお門違いという
ものだ。ましてこのおっさんは悪意でしたわけではない。
許してやってちょーだいよ、と私が代わりに謝りたかったが、ついさっ
きまでの話し相手が般若となってしまっては車内で恥じ入るしかなく、
話しかけても応じない彫像の如く仁王立ちしているからには為す術がな
かったのだった。

四十になんなんとする彼女には彼氏がいて、同棲しているわけではない
が喫煙をやめさせたと言っていた。それは両者の健康に良い。おのれに
火の粉がかからない限り、相手が煙草を吸おうがアスベストを吸おうが
構わないタチの私としては、心から敬服したものだった。
しかし教条と不寛容とは自ずと違う。看過と寛恕が自ずと違うように、
だ。悪意のない他者を、その取るに足らない過失(この場合は過失とも
呼べないが)を以て一時にせよ憎む権限など何ぴとにもありはしない。
それはただ愚かしい傲慢でしかなく、唾棄すべき相手はおのれ一人だ。

お互い様、という慣用句がある。家電製品をペットにしているような老
女の笑顔を髣髴とさせる自治会めいたこの言葉も、手垢が見えて好きで
はない。好きではないが世の実相なのだ。誰もが大気を吸い二酸化炭素
を吐いて生きている。敷地を接し、軒を接し、上階に住み下階に住み、
道を歩き交通機関を同じうして生活している。交わりたくなければ距離
を取り、見たくなければ目をそらせばいいし聞きたくなければ暫時耳を
塞げばいい。しかし呼吸しないわけには行かないのだ、吸気に付随して
来る匂いは防ぎようがない。ならば寛恕するしかない。いや忍受か。
渋谷を根城にしている浮浪者(ホームレスというより、頭がいかれてい
るので正真正銘の浮浪者)に凄いのがいて、腰までの毛髪が板状のナチ
ュラル・ドレッドになっており、五メートル圏内に入ると目が痛くなる
ほど強烈な臭気を放っていた。券売機の釣銭忘れを探っていたが、滅多
に出会えない匂いを嗅がせてくれたと思えば却って有り難くさえある存
在だ。勿論、その後に出会った時は息を止めて歩を速めた。

デ・ジャヴもメ・ジャヴも五感で呼び覚まされる。目で耳で舌で感触
で、既視感も故事も鮮やかに呼び覚まされる。これを感応というのだろ
う。それは我々が頭の中でこねくり回している思惟とやらより格段に色
彩豊かで確固たる形象を伴う。おちょぼ口の詩歌などより官能が勝ると
いうことだ。余談ながら、そうした神経の鋭敏は、孤絶の自覚の一方で
共感に振り向けるべきではあるだろう。でなければアタマのバランスが
保てない。

とりわけ匂いは経験というより体験として、言語中枢をすっ飛ばして原
形のまま記憶に折り畳まれている。言うまでもなく記憶は事実を変形・
歪曲して行く。必ずしもこれは時間の経過や忘却のゆえではないから、
一義的には自我、二義的に言語化が作用しているのだろうと推察する。
最も非言語的である筈の皮膚感覚はそれ自身の曖昧さ、追体験の頻度
によって日々薄まってしまう気がするが、匂いは直截な形で保存され
続けるのだ。何故なのかは知能不足でわからないが、思考以前の感情、
感情以前の感覚に強く結びついて記憶されるのかも知れない。恐らく
それは動物時代の残滓であり、生きて行くのに枢要な警戒や認知の領
域なのだろう。とすれば、忘却に埋没した過去の断片を、しばしば嗅
覚が最も鮮烈に喚起するのは当然なのだ。百獣の王となった人類の成
獣はもはや日常生活でキョトキョト見ない、ビクビクと耳をそばだて
ない、おいしそうな料理は初見でも大口で味わう。人によっては対象
を無慮に触りもするだろう。ただ最初に嗅ぐ時は、花の香りさえ盛大
には吸わないのではないだろうか。

物にも人にも場所にも、時期や瞬間にも固有の匂いがあり、犬より遥
かに劣る我々が、我々なりに鋭くそれを感知する。匂いの記憶。
利便に堕落した人間の感度からこれをまで奪わないで欲しいと思う。
この浅薄なシュッとひと吹きで害虫のように、親友だったずたぼろの毛
布やタオルケットの匂い、おばあちゃん家の匂いやその寝巻や布団、一
人一人違う友達の家の匂い、学校から帰った時の玄関や古畳、押入れの
匂い、また煮魚や野菜炒めの匂い、おんぶされて嗅いでいた父のうなじ
の、耳掃除をされていた間の胡坐の匂いを子供時代から奪わないで欲し
い。置き去られた居室の洋服箪笥に残っていた母の匂い、生活の失せた
その部屋を侵食しつつあった埃の匂い、毎日通っては馬鹿みたいに泣き
ながら片付けていた仕事場の黴の匂い、それからクソの役にも立たない
男達の腋下の匂い、父とはまた違う胸の思慮深い匂い、柔和で野卑な唾
液の、アットホームな精液の、淫猥極まりなく忌むべきなのかもねの私
達の匂い、夏の夕暮れに嗅いだ私の自堕落を象徴する生ゴミの匂い、そ
れからかわいいかわいいうちの猫のぱぴぱぴなおしっこの匂い。
そうしたものの幾つかでも欠落するとしたら、鼻腔粘膜は無知な感覚器
官でしかなく、脳はひときわ薄っぺらい主体になる。人生は病室ではない
。また現在だけが人の眼前にあるのでもない。無用に除菌消臭するべきで
はないのだ。尤も、エレベーターや車内での放屁はもっての外だ。


散文(批評随筆小説等) 消臭考 Copyright salco 2010-03-02 02:42:28
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