だから読むこと始めるの
木葉 揺

 読書の秋って言いますけれど、今年はほんとにそんな秋にしたい。いやいや、なんとなく落ち着いてきたから、ぼちぼちとできる範囲で。今、詩の書けない時期に入っています。発想ゼロ。何も浮かびません。ある意味バンザーイ!!今がチャンス。
 さて読書って活字恐怖の私には戦いのようなもんです。活字中毒の人がうらやましい。ハッキリ言って「書きたいから、我慢して無理やり読む!」でございます。小さな100円ショップで買った詩集、一冊を何日で読めるか?いやぁ、行き詰まったら何ヶ月かかる覚悟・・・そいでも現代詩入門という理論系は数時間で読んでしまった。。。あーーーーーーー!詩はなぜ読めない〜?
そこで、もう私は「詩は外国語だ」と思うことにしました。まぁ、極端に国語力のない私にとっては、知らない言葉、読めない漢字がいっぱい出てきます。全部はへとへとになるのでしてませんが、余裕のあるとき、辞書やネットなどあるときは、言葉を調べる。ハイ、皆さんやってることです。やってない人もいるでしょう。
そこでよく意見割れますよね。「調べなくたっていいじゃん」という声も聞きました。そこで二通りに分けて考える。
・調べて読むのが必要な時  ・調べないで読むのが必要な時
どっちも必要なんです。「詩を読む → わからない → 調べる → 進まない → 苦痛 → 詩が嫌になる → 挫折」という経路をたどってしまいがちな私です。ですが!何かと、理屈には助けられます。そこで生まれたのが「詩は外国語だ」という自分にとって都合のよい言葉。そう思うとわからなくて当然。わからないからステキ。
外国語って、最初は全部単語がわからんわけで、調べなきゃ取っ掛かりも見つからないんです。でもある程度単語がそろってきたら、わかる範囲で読める(かも)。英語も中学校の時は、とにかく調べて単語を増やして読んでゆく。もちろん高校でもそれは基本ですが、受験間際になると「知らない単語はとばして全体を把握する力」も育てなきゃいけません。そうでなきゃ、私みたいに試験中に一個の単語を知らないだけで、「わからないーーー!」とパニックになっちゃうのです。
 詩も同じかなぁ。ほとんど日常会話通りの言葉しか知らない私にとっては、中学一年生の英語並みだなぁ、なんて思う。だから基本は調べて読む。でもあまりにも遅い。へとへとでイヤンなる。だから交互に「調べないで読む」時間もプレゼント。その時は、わかる言葉だけで読んでいく。まぁ、今のとこ読んでいるのは日本語の詩なわけで、意味を知ってる言葉もあって当然。あとは推理する力でしょうか?
 結果理解できなくても良いんです。理解できなかったとき、私は「収穫ゼロ」のような感覚になっちゃうけど、脳というより、肌の下くらいに何か残ってるんですよね。自分でも気づいていない。だから進歩がなかったように思えちゃう。でも、ハズカシながら、中原中也さんを読んでいたときに、なんとなく詩を書いたんですが、「げ!中也さんのりうつってる!」って感じで、意識せずに「中也節」が現れたりして、あ、こんな私でも影響受けてるんだなぁ。と思いました。微妙にウレシイ。。。微妙にっていうのは・・・
 たぶん、詩に対して意見が割れてる原因って、そこなんですよね。「オリジナリティを追求するのが詩だ」と思っている人にとっては、ショックな現象ですよね?人の影響受けて、自分の詩が変わってしまう。自分の詩じゃなくなる・・・みたいな恐怖。たくさん読めば読むほど、色んな人のカラーで染まっちゃって、自分はどこ?のようになってしまう。
心配するな。オリジナリティは消えん。確かに弱くなる。でもこだわっている人は、もともと「出そう」という欲求が強いから、たぶん残る。たぶんね。
 結局、「じゃあ普遍的な表現方法って何よ?」って知りたいか知りたくないか、ということになると思います。特に知りたくない人は読まなくていいんじゃないかな?自己表現を詩でしてゆきたいなら、「読まない人は書いちゃダメ」という法則もないし、そういう気軽に付き合えるとこも詩の魅力だからね。オリジナリティを追求するに専念するといいと思います。
 でも相反するんですよねえ。やっぱ人って認められる喜びって、一度知っちゃうと欲が出ちゃう。「たくさんの人に読んでもらいたい、感じてもらいたい」ってなっちゃって、そうなると全く理解されないで素通りされるとストレスたまる(爆)。「追求したい」人ほど「認められたい」願望があると思われ。
 確かに、確かに。マニアックな人間に対しては「わからない」が最大の魅力になることもあります。「吉田ヒロ」のギャグのように(それこそマニアック)。だから10人中9人は素通りして、1人だけ爆笑してくれた、っていう結果が欲しい時もあります。でもマニアックな人が読んでくれなかったら、それは「全員素通り」という結果に終わります。下手すると素通りを繰り返してゆくだけになるかもしれません。また、幸か不幸か、みんなが「個性」を追求してる時代。(昔の人は生きるため、がむしゃらに働いた)「オリジナリティだー!」って言っても、時間差で、見えないところで、同じことを考えてる人がいたりもします。そんな中、「詩を書く」という趣味の人が多いこと!!知らずに似てる詩ができあがっちゃうのです。そういう状況の中で、もし「書く」という行為と共に生きるなら、普遍的な表現を使いまわせたら武器になりますよね?
高校のころ、国語がまるでダメだった私は、国語の先生のアンケートに「どう感じるかは人それぞれ」と、ありがちな文句を言ってしまいました。先生からは「それは違うな」と言われただけで、納得のゆく答えは得られませんでしたが、ある友達が「私もそう思ったけどね、国語って『普遍的なものの考え方』を学ぶのだって。」と言ってくれて、初めてスッキリしました。それからは「へえー、普通はそう感じるのかぁ!やっぱ私ってズレてるなぁ」と学ぶようになったのです。
 オリジナリティを追求するにしても、一般的な考えからどのくらい距離があるか測れた方がいい。詩を書くのにも、基準となる表現を知っていた方がいい。ちゃんと詩を読んで来られた方は、その辺のバランスとかを知っているからすごいんです。
 ぶっちゃけ、自己表現大好き女です。瞬間に生まれる言葉にも執着あります。自分が大好きです(恥)自分が思いついた(と思い込んでる)言葉も大好きです。それに詩が利用されちゃってるのかもしれない。
 ただ、今は詩の別の側面を覗いてみたい。「詩とは何ぞや?」私がちょっと覗いたくらいでわかる世界じゃないけど、飽きっぽい自分が、この逆境にどこまで付き合えるか実験して観察する。それが私の今のチャレンジです。一年後に「詩とどのように付き合ってゆくか」見えてきて、たら、うれ、しい、な。


散文(批評随筆小説等) だから読むこと始めるの Copyright 木葉 揺 2004-09-29 15:55:05
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