さようなら、過ぎ去った日々よ
ホロウ・シカエルボク



春のある一日の暮方には
発狂の
予兆がある
ジンと痺れたような
頭痛とも呼べない違和感と
芯を抜かれたような
身体の座り
くちびるは
読経のような調子で
言語にならぬ声を長く無意味に吐く
とある一日に
溶けていく
ような
現存
まぶたはずっと
寝過ぎたような
眠り足りないような
疲れに
包まれている
首を垂れて
マリア・カラスの
殺傷事件のような
歓喜の歌声を聴いている
カーテン越しの空は
ほんとうより
終わっているみたいに見える
頭蓋骨と頭皮の間に
何とも名付けられない
薄い膜が
潜り込んでいるみたいに感じる
まばたきを繰り返すが
景色は変わることはない
いまこの身を蝕むもの、おれはそれに
名前をつけることが出来ない、それはあらかじめそのように
設定されてこちらに投げ出されるらしい
首を何度か横に振ってみたが
景色は
変わらなかった
マリア・カラスの殺傷事件のような歌声
じっと耳を傾けていたら横隔膜がこそばゆくなった
受け止める底のない
砂時計のような喪失のしかた、それが本当になるのは
砂がすべて落ちてしまったあとからのことだ
おれの言葉のことを誰か記憶しているか
おれにとってそれはすべていちど忘れてしまったものだ
おれの言葉のことを誰か記憶しているか…?
IDが抜けおちたら世界の暮らしは快適か
だけどそんなことでいったいどうする…?
春のある一日の暮方には発狂の予兆があるが
おれ以外にそのことを知っているものは誰も居ない
その春のある一日の暮方のことを知っているものは
もしもおれが蒲公英の種になったら
この世で一番不幸な種になるだろう
おれはきっと空の上で風に流れながら
こんなことにはたして何の意味があるのだろうと考えるだろう
しかもそれはだからといって
なにとも変換出来るようなたぐいの事態ではないのだ
(例えば名前のつけられないある種の状態によく似て…)
人肌よりも温度の低い火で炙られているような感じって判るかい
それがきっといちばんこの感じに近いものかもしれないな
一行書くごとに背もたれに倒れて
額に群れをなす小さな血管の疼きを確かめている
それをしなければこの綴りを終了させることが出来ないような気がするのだ、なぜならおれは予兆を抱え続けて書いてしまっているからだ
いま、もしも誰かがおれの手を取ったとして
そいつにはおれの脈を上手く感じることが出来ないかもしれない、そうしたらそいつの中でおれは確実に死んでいるのだ
額に群れをなす血管の疼きを確かめている
それが疼き続けているか
それとも止まっているか
あるいは疼いているくせに熱を失っているか
そのうちのいったいどれであってほしいと願っているのだろうと考えながら
指先は頭蓋骨の運命的な硬さを確かめるのだ
こんなおぞましい景色に春などと名前をつけたのはどこの誰なんだ
おれはそいつの襟をぎりぎりと締め上げてしまいたい衝動にかられる、だけどもうそいつはとっくの昔に死んでしまっている
春!春よ!おれは背もたれに身を沈めながら―クレープの皮みたいな実感の身を沈めながら―
蓋の少し開いた
まだ空の棺桶のような空気を湛えた春に向けて声を上げるのだ
「春よ、おれの言葉のことをおまえは記憶しているだろうか?」
春は答えることはない
思考の度が過ぎたとろけた脳髄には
それが春であるのかなんて実際のところはっきりとは分からない
ただの生身の肉体に春など理解出来るわけがないではないか?
空の棺桶は誰を待ち続けているんだろう
おれはその長さを確かめるような真似はしなかった
もしもそれが自分をゆったりと横たえるのにちょうどよい長さだったりしたら
怯えて狂うのか安らかに目を閉じるのか分からなかったからだ
生身程度の自分としてはどちらのおれも認めたくはなかった
そんな気持ちあんたには分かってもらえるだろうか
なあ、冬のように冷えてくる、どうすればいい
冷えてくる温度とマリアの高く転がる歌声
(なぜどうしてこのふたつはこんなにもよく似てるのだろう?)
背もたれはおれを邪険に受け止め
暮方はもうすぐ夜に変わる
おれはカーテンを少しだけ空が見えるくらいに閉める
どうせ空など見てるわけではないのだ
どこかで落としている、おれのことを、おれ自身が
どちらがあるいはどれが
おれそのものなのかおれには分からない
それがどれだったら満足なのか
それもおれには全く答えることが出来ない
願望がない時間にはいっそう我が身を幽霊のように思える
幽霊でない理由などどこかにあるか?
幽霊と呼ぶには在り過ぎていると言うのなら…
「おれは神のペンから落ちた一滴のインクが残した染みだ」


なんて
どうだ?


ああ
暗くなるね、暗くなる……






自由詩 さようなら、過ぎ去った日々よ Copyright ホロウ・シカエルボク 2010-02-24 17:38:34
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